大恐慌が始まったばかりの一九三〇年の秋、アメリカの百貨店シアーズのカタログは、このような「警告」を掲載した。
「倹約こそが、いまのムードです。無謀な浪費は、過去のもの(Thrift is the spirit of the day. Reckless spending is a thing of the past.)」
 ジャズエイジこと一九二〇年代の、「フラッパー」と呼ばれた女性たちの装い、すなわち、ボーイッシュでありながらヒラヒラふわふわしたファッションは完全に「アウト」となった。スカート丈は長くなり、自然なウエストラインが戻り、きちんとした印象を与えるテイラードスタイルが流行し始める。スタイルが激変したにもかかわらず、既製服の購入を控え、自分で服を縫い始める女性も増えた。
 二〇〇八年秋のリーマンブラザーズの破綻以来、深刻な金融不安が世界的に波及している現在にも、まさしく、似たようなムードが漂う。
 ブランドものやアクセサリー、なかでも「イットバッグ」と呼ばれた、高価なブランドのトレンドバッグによる富と流行感度の誇示、そして挑発的な「セレブ」風の露出過多ファッションは影をひそめた。それに代わって、無難なテイラードスタイルや、古着や基本的なアイテムを自己流に組み合わせる、これみよがしではない装いが、時代の空気になじんでいる。
 経済不況期ぐらい、ファッションを放棄してもよさそうなものだが、倹約しながらなお、時代のムードに合う装いや振る舞いを最大限の努力でもって探したい。そんな願望はどんな時代においても、失われることは決してないようである。ファッションに対する関心が高く、その高さを積極的に表現する人をファッショニスタと呼ぶが、「不況(recession)でもファッショニスタ」「倹約(frugal)してもファッショニスタ」であろうとする人を表現することばとして、二〇〇八年のはじめごろから、こんな新語が英語圏のメディアで用いられるようになった。
「リセッショニスタ(recessionista)」、そして「フルーガリスタ(frugalista)」。
 そんな新語と手を携えて表舞台に出てきた美の基準が、「リセッションシック」であったり、「フルーガルシック」であったりする。
 倹約せざるをえない生々しい現実を別の表現に言い換えることで心の余裕をもとう、というような肯定的な意味合いも混じれば、こんなときにファッションだなんて、という皮肉まじりの意味合いも若干混じる。
 自分で自分を「リセッショニスタ」と呼ぶときには、明らかに自虐風味の後者である。「倹約が必要になったので、靴を買えない」というような場面においても、「リセッショニスタなので、新しい靴っていう気分じゃないの」と言えば、みじめさもいくばくか減少しようというものである。
 売る側もまた、このことばを利用して新しい価値を提供し始めた。
「値下げ」と言わず、「リセッションビューティー」と称して値下げする美容室や、「リセッショニスタコレクション」という安価なシリーズを提供する化粧品会社が登場する。
 新しいことばは、新しい発想を生む。リセッションシックが積極的に探されるなかで、好況期には見られなかったファッション行動が目に留まるようになった。
 経済状況がつらいときでも人は服を着なくてはならず、暗さがのしかかる時代であればこそ、そんな時代のファッション行動を通して見えてくる人の心の働きというものもある。経済不況期に入って都市部に現れてきたファッション現象を、その背後にある社会の動きを視野に入れながら、概観してみたいと思う。
 本書は同時に、二〇〇〇年からの一〇年間を、ファッション史研究者の目で通して見た、ささやかな記録でもある。モードの変化を渦中で観察し続けてきた一同時代人が見た「ファッション史から見るゼロ年代」が、読者の皆様にとっての二〇〇〇年代、およびその先を考えるための、なにがしかのきっかけになれば幸いである。