▼天皇とアメリカは均等ではない
吉見 天皇とアメリカ。いささか大上段なタイトルですけれども、この対談では、天皇にしてもアメリカにしても実体として捉えるというよりは、機能としてというか、さまざまな力が作用していく場として、あるいは表象として考えていこうと思います。
 まず言えることは、この二つは均等、イコールではないことです。天皇とアメリカの裏には、大統領と日本というフレーズもあるかと思いますが、印象がずいぶん違う。つまり二〇世紀、あるいは現在のグローバルな地政学を考えたときに、アメリカのほうが圧倒的に大きい。世界のかなりの部分で、アメリカという力が、直接間接に作用し続けてきました。
 東アジアについて考えてみても、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)ですら、少なくとも一九九〇年代以降は、アメリカとの関係において自分たちのポジショニングをしてきている。つまり見かけ上はミサイルを発射したり、核実験をしたり、非常にけんか腰のふるまいをしながらも、しかしその根本にはアメリカに対する依存がある。アメリカといかにゲームをするかということに、彼らは命がけでその未来を賭けてきたわけで、米朝関係が北朝鮮にとっては決定的に重要であり、また彼らの未来に対する想像力をも規定している。この想像力のなかでは、日朝関係はまったく従属的なものでしかないわけです。
 韓国や台湾やフィリピンも、また違ったかたちで、アメリカとの関係が大きな比重を占めてきました。たとえばフィリピンの場合は、非常に長い時間をかけた文化的な従属関係、コロニアルな関係があり、そこからなんとか脱出しようと、もがいてきた歴史があります。
 そして日本はどうか。まさしくアメリカとの関係が、現在に至るまで決定的に重要であり続け、北朝鮮とは違うかたちでアメリカとの関係に自らの未来を依存させてきた国です。
 したがってアメリカといかに対するかということが、冷戦期、ポスト冷戦期の多くの国や地域にとって自分たちの未来を考えていくときに避けては通れない問いであり、別の言い方をすれば、戦後長らく、それぞれの国や地域の歴史的想像力が、アメリカという留め金によってピン留めされてきたわけです。そして、このピンをどのように外すのかということが、それぞれが未来への想像力を取り戻すうえで決定的に重要になってきます。
 天皇とアメリカという話に戻っていえば、日本の近代、戦後の歴史を振り返ってみると、とりわけ戦後の天皇は、こうしたアメリカとの関係から独立した存在ではそもそもありえなかった。ある意味で、グローバルなアメリカという力が日本において立ち現れるとき、その現れ方に天皇という存在がある決定的な役割を担い、戦後も自らを生き長らえさせたというふうに思える部分があります。もちろん、近代の天皇は、そもそも一九世紀に世界化する西欧列強を中心とした帝国主義のアジアにおけるひとつの発現だとすることも可能です。日本のナショナリズムも、天皇も、最初からグローバルな変動を内包していた。
 ここで我々が考えようとしているのは、中心的には日本の近現代になりますが、閉じたかたちで考えるのではなくて、さまざまなグローバルな力が交錯する空間としてそこのところを捉え返そうということです。第二次世界大戦後になると、アメリカが諸々の力を束ね、「象徴天皇制」と自民党の長期支配を支える非常に大きな留め金となっていった。つまり天皇とアメリカという問いを立てることによって、そうした力の交錯の構造が、内側と外側をつなぐ位相で見えてくるのではないでしょうか。

▼転換期――そして帝国の終焉?

テッサ  吉見さんの発言に付け加えると、いま私たちはたいへん大きな転換期を迎えています。
 冷戦は一九八九年か九〇年に終わったということになっているわけですが、冷戦を支えた力学とシステムはまだ継続している。それは長い冷戦と呼んでも構わないものだと思います。でも、その長い冷戦もやっと終わりかけている。そういうふうに考えてみると、帝国の終焉なのか、あるいは新しい変化なのか、まだきわめて不透明です。ただ長いあいだ続いた秩序が、この一〇年間ぐらいで非常に危機的な状態に陥ったことだけは明瞭になってきた。帝国という言葉をハートとネグリが意味するようにいま私は使いましたが、いうまでもなくその中心はアメリカです。
 アメリカ国民もそれを感じたので、先の大統領選でオバマを選んだのでしょう。あの選挙で象徴的だったのは、共和党も民主党も、そのスローガンが変化に焦点を絞っていた点でした。両陣営とも、変化、チェンジという言葉を選挙戦を通じてずっと強調していた。アメリカ国民もこのままでは本当に破局に直面すると感じたからだと思います。
 アメリカは、大統領選のときも現在も、経済的に非常に危機的状況ですし、外交面でもイランとアフガニスタンを中心として非常に危機的です。オバマ政権になって、破局を本当に避けることができるのか、あるいは方向転換が可能なのかを模索しています。もちろんそれはアメリカ内部の状況だけで決定されるものではなくて、中国とか、中近東などの状態によっても左右されていくのでしょう。
 それではこの大事な転換期に、日本の位置はどうなっているのか。少なくとも二〇世紀に入ってからの日本の近現代史を検証すると、天皇とアメリカは、象徴的な二つの軸でありました。天皇は、伝統、宗教、土着文化、愛国心などを表象し、アメリカは、近代、合理主義、外来文化、そういうものを表象してきました。当たり前に考えれば、この二つの軸は両極端に位置しているはずのものです。しかし実際は、帝国としてのアメリカと日本的なるものの象徴としての天皇が、複合的に絡み合いながら相互作用として機能してきたと考えます。転換期に直面し、この「天皇とアメリカ」という複雑な構造と向き合い、再検証していく作業は、日本にとって避けて通れない課題なのではないでしょうか。