●はじめに
二〇〇六年一二月、松坂大輔との契約書にサインしたボストンレッドソックスの経営陣は、「これで日本企業から巨額のスポンサー収入を得られるだろう」と誰もが疑わなかった。日本人大リーガーのパイオニアである野茂英雄を獲得したロサンゼルス・ドジャース、日米通算三〇〇〇本安打を達成したイチローが所属するシアトル・マリナーズ、元読売ジャイアンツの主砲、松井秀喜が〇九年まで在籍したニューヨーク・ヤンキースいずれの球団も、当初は毎試合数千人単位で観客動員が増えただけでなく、日本企業のスポンサー獲得にも成功していたからである。松坂の代理人、スコット・ボラスも契約交渉の過程でそう太鼓判を押し、契約金をつり上げる材料に使っていた。
レッドソックスが松坂獲得のために投資した金額は総額一億ドル(九〇億円)を超す。日本人選手獲得のために大リーグの球団が支払った過去最高額である。うち約五一〇〇万ドル(四五億九〇〇〇万円)は独占交渉権を得るためのポスティングフィー(入札金)としてそれまで在籍していた西武ライオンズへ支払われ、残る約五二〇〇万ドル(四六億八〇〇〇万円)は六年契約の年俸として松坂自身に支払われる。
日本で十分な実績があるとはいえ、大リーグでは松坂は「ルーキー」にすぎない。メジャー野球に適応できるかどうかは不透明で、けがで契約期間を全うできない恐れもある。そのリスクを承知したうえでの破格の厚遇は、松坂が野茂、イチロー、松井に連なる日本人スター選手であることと無縁ではない。
大リーグにとって日本は、人材供給で欠かせない地域であると同様に、収入面でも軽視できない市場である。いやそれ以上の存在と言ってもよい。
大リーグ機構(以下、MLB)のある首脳は、〇七年に総額六〇億ドル(五四〇〇億円)だった全収入のうち、放映権料、グッズ販売、スポンサー料などとして日本から流入するマネーは年間三億ドル(二七〇億円)に達したと、私に教えてくれた。これは全収入の五%に相当する。MLBは、収入の内訳などの詳細な経営データを公表していないため、今初めて明らかになる数字である。また、その三億ドルには、日本人観光客や現地在住の日本人が米国内で消費した金額、つまり現地で購入した当日券などのチケット代金や、球場内で飲食した代金、現地で買ったグッズの売り上げは含まれていない。日本人がもたらすマネーの総額は実際、三億ドルを大きく上回ることだろう。
韓国、台湾、メキシコ、プエルトリコ、ドミニカ共和国、ベネズエラ……。大リーガーを輩出する国は多いが、「市場という視点で見ると、日本ほど重要な国はない」と、その首脳は言い切った。
市場としての日本の比重は年々増し、日本人大リーガーへの投資回収の成功例もあるのだから、レッドソックスが同様のリターンを期待したのも当然のことである。
しかし、実際にレッドソックスが「松坂効果」として直接手にできたお金は、〇七年シーズン開幕前に船井電機と結んだ年九〇万ドル(八一〇〇万円)のスポンサー料程度にとどまった。所属する松坂、岡島秀樹の両日本人投手が記者会見を行う際、船井電機のロゴが入ったバックボードを使用するという契約内容である。サム・ケネディ上席副社長兼CSMO(チーフセールスアンドマーケティングオフィサー=最高セールスマーケティング責任者、現上席副社長兼COO=最高執行責任者)は私の取材に対し、「残念なことに、(投資の回収に)十分な成功を収めることはできなかった」と率直に認めている。シーズン二、三年目の〇八、〇九年も状況は全く変わらなかった。
意外に思う人が多いかもしれない。大リーグデビューの年、松坂が登板する試合はほぼすべてNHKなどで中継され、年間四〇億円という巨額の放映権料が総代理店の電通を通じてMLB側に支払われている。大リーグの公式グッズを扱う東京渋谷の「MLBクラブハウスストア」では、松坂のTシャツやレッドソックスのグッズは人気アイテムの一つだった。レッドソックスの試合を見るためにわざわざボストンへ旅行した人もいる。さらに、〇八年三月下旬にはオークランド・アスレチックスを相手に、東京ドームでレッドソックスの開幕戦が開催された。チケットはもちろん、試合観戦中のビールやソフトドリンク、弁当、レッドソックスの各種グッズも飛ぶように売れた。「そのお金がレッドソックスを潤さないはずがない」と。
しかし、ケネディの言葉にうそはない。なぜか? その理由を探ることで、大リーグビジネスのカラクリが浮かび上がってくる。
本書の狙いは「ビジネス」の視点で大リーグを読み解くことである。大リーグビジネスの構造にメスを入れ、霧に包まれたMLBの戦略や錬金術のカラクリを解き明かしたい。
大リーグはなぜ年間五四〇〇億円のビジネスに成長したのか。
球団は果たして黒字なのか、赤字なのか。
オーナーたちはなぜ、球団を保有しようとするのか。
レッドソックスはなぜ、松坂獲得に一億ドルを費やしたのか。
ヤンキースはなぜ、フリーエージェント(FA)権を行使した大物大リーガーを金に糸目をつけずに獲得し続けるのか。
大リーグではなぜ、新球場の建設ラッシュが続くのか。
大リーグの開幕戦はなぜ、時折日本で開催されるのか。MLBは儲けたのか。また、開幕戦の組み合わせはどのように決まるのか。
ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の決勝シリーズが将来、日本で開催される可能性はあるのか。開催時期を夏や秋にずらす余地はあるのか。
これらの疑問を解くカギは、すべて「ビジネス」が握っている。
私は毎日新聞の経済部記者を長く務め、フルブライト奨学金を得て、〇七〜〇八年にハーバード大学の客員研究員として野球ビジネスを研究した。本書はその研究成果である。
本書には松坂、イチローら日本人大リーガーの活躍の軌跡も、ベーブ・ルース、カル・リプケンJr.ら過去の偉大な大リーガーたちの人間ドラマも出てこない。代わりに、九五年に収入総額一四億ドル(一二六〇億円)にすぎなかった大リーグが、わずか一〇年余りで六〇億ドル(五四〇〇億円)を超す巨大ビジネスに成長した秘密、各種データから垣間見える経営戦略、そしてその立役者となった人物たちの素顔に迫ろうと努力した。
「野球はピープル(人材)ビジネスだ」。ある球団関係者がそう語っていた。大リーグは逸材のアスリートたちが火花を散らす勝負の世界であるとともに、有能なビジネスマンたちが頭脳を駆使し、貪欲な投資家たちがさらなる富を求めてうごめく舞台でもあるのだ。