本書の読者のために 木村元彦
ボスニア紛争の解決において、そのミッションを担った者として明石康は欧米諸国から大きなバッシングを受けた。批判の多くが、「指導力不足により、ボスニアの民族紛争を、結果的に長びかせた」というものだ。クリントン政権時の米国務長官オルブライトに至っては、自伝の中で「アカシの慎重すぎる判断が、NATOによる空爆を困難にした」と、名指しで批判をしている。実際にボスニアのムスリム地区に行けば、今でも日本人と見ると、「ヒロシマ、ナガサキ、ヤスシアカシ」と、未曾有の悲劇と並べて囃し立てる人がいる。「ヤスシアカシがNATO軍にセルビア人勢力への攻撃を強く要請していれば、ムスリムの虐殺は起こっていなかった」と主張するのである。
しかし、ここ十数年筆者はユーゴ崩壊の過程を検証取材していくなかで、当時の明石の態度と決断が、いかに国連の平和原則に則い、公正たらんとしたものであったかを思い知らされる場面に多く遭遇した。バルカン半島ではすべての民族に公正に接しようとすればすべての民族を敵に回してしまう複雑さがあるが、興味深い事実がある。ICTYに送られた戦犯ミロシェヴィッチの裁判において、明石に対し弁護側からも検事側からも証言に来てくれという要請があったのだ。クロアチア軍の司令官だったゴトヴィナの弁護側からも証人として出廷を依頼された。ミロシェヴィッチはセルビア人、ゴトヴィナはクロアチア人であり、これはまさに、かつて各民族が、仲介者として明石は期待外れだと批判しておきながら、その実、今となって、事実重視の姿勢を貫いていてどの民族とも等距離に接していたことを認めた証左である。
スレブレニツァについて言えば、国連保護軍の増兵をたった四分の一しか認めなかった安保理や、バルカン問題に対する常任理事国の足並みの乱れ、オランダ国防大臣からの近接航空支援の中止要請が入った点など、明石の意志というよりもむしろ国連の構造的な問題がその原因と言える。「戦争広告代理店」ルーダーフィン社の暗躍もあり、CNNを中心に行なわれた「セルビア悪玉論」が渦巻くなか、明石はさらに欧米の世論の集中砲火を浴びながら、国連のプレゼンスを死守したと言えよう。
事実、ボスニア紛争以後の世界の平和構築の有り様は大きく変わる。国連無視の武力行使は一九九九年のコソボ紛争に始まり、やがて九一一事件を契機に、アフガン侵攻、イラク戦争と米国の暴走が続いていく。
ここに改めて、安全保障政策が米国主導に傾いていくなかで、国連のプレゼンスを最後まで知らしめようと全力を尽くした人物の肉声を聞いてみたいと思った。
もとより私は、御用本にする気はまったくなかった。初見のインタビューで「UNMIKの日本人職員が二年間も現地に駐留していながら、一度もセルビア人エンクレイブを視察したことがないと言っていましたが、この事実は公正さに欠けるのではないですか?」とかねてから不満に思っていたことを問うと、「それはおかしいですね。国連は最も厳しい被差別地域、少数者の現場にいるべきだし、今までもそうであったと思います」と、本当に不思議そうな表情を浮かべて答えをされた。そこには虚飾も気負いもなく、現場を奔走した国連のリーダーとしての自信が滲み出ていた。もしも目の前にその職員がいたら【叱/しつ】【責/せき】したのではないかと思えた。このインタビューイにもっと聞き込みをしたいと感じた瞬間だった。
おりしも日本では政権交代が起こり、新与党は米国と対等の関係をマニュフェストに謳い、外交の軸として再び国連に注目しようとしている。日本人初の国連職員明石康の回想の底に降り立ち、仲介の当事者として向かい合った政治家たち(その多くは現代史に名を残すナショナリストたちであった)の素顔、交渉の術、そしていくつかの主題に沿った記憶に焦点を当てることで見えてくるものは少なくないはずである。