新型インフルエンザウイルス発見
「新しいインフルエンザウイルスの塩基配列が、データベースにアップされたよ」
 そんなメールが私のもとへ届いたのは、二〇〇九年四月二五日。メールの送り主は、友人でもあるCDC(アメリカ疾病予防管理センター)の研究員だった。
 アメリカでは四月二一日に、「カリフォルニアでインフルエンザを発症した患者から、通常とは異なるインフルエンザウイルスが分離された」とのレポートが発表されていた。四月二五日の時点では、「二人目の発症者」からのウイルスが確認され、新しいインフルエンザウイルスは豚のウイルスであることが、CDCの解析で明らかになったばかりだった。
 CDCの研究員が知らせてきた「新しいインフルエンザウイルス」とは、のちにパンデミック(世界的大流行)を巻き起こした、そのウイルスのことだ。私はCDC研究員にすぐさま電話した。
「そのウイルス、送ってほしい」
「わかった。ところで、豚のインフルエンザウイルスの移動許可証はもってるか?許可証があればすぐに送れるけど」
 アメリカに限らず日本でも同じだが、動物のウイルスには厳しい移動制限がかけられていて、たとえばアメリカの場合、同じ州どころか同じキャンパス内でも動物のウイルスを移動させるのに許可証がいる。
 許可証を発行するのはUSDA(アメリカ農務省)だ。ウイルスの運搬を宅配業者に委託することもあるが、これもセキュリティに関する細かい条件をクリアした業者に限られている。
 私は鳥インフルエンザウイルスの移動許可証ならもっているが、豚インフルエンザウイルスの移動許可証はもっていなかったので、こう答えた。
「もっていないので、今から申請をだすよ。どのくらいで許可がおりるかわからないけど、許可証をもらったら連絡する」
 こんな会話を交わしたのが四月二五日土曜日の午後。ところが翌二六日に、CDCの友人がこう言ってきた。
「このウイルスの移動に許可証は必要なくなった。すぐにでも発送できるよ」
 今回の豚由来インフルエンザウイルスは、人から人に伝播(感染)しているということで、USDAが制限すべき「動物」のウイルスではなくなった、との判断がなされたらしい。
 ちなみに「新型インフルエンザウイルス」の筆頭候補にあげられていたH5N1鳥インフルエンザウイルスの場合は、人から分離されたウイルスでもいまだに厳格な移動制限がかけられている。
これは、H5N1ウイルスが今のところ人から人へ伝播するようにはなっておらず、鳥類などの人以外の動物でのみ効率よく伝播するからだ。
 ともあれ新型のウイルスは思いのほか早く入手できることになった。

休日の緊急ブレーンストーム
 CDCの友人から新型インフルエンザウイルスについてのメールが届いた翌日、日曜日ではあったが、私は研究室で一緒に研究しているスタッフにミーティングを呼びかけた。といっても、この新しいウイルスがパンデミックウイルスになると、この時点で考えていたわけではない。さらに言えば、豚由来のウイルスが人のあいだでパンデミックを起こすとは、このときはまだ確信していたわけではなかった。
 恐らくこれは、私だけではない。インフルエンザウイルス研究に従事している人はみな、「パンデミックを起こすとしたら鳥インフルエンザウイルス」と考えていたはずだ。
 だから、メキシコで豚由来の新型ウイルスによる感染が拡大し、人がかなり死亡しているとの情報には驚き、新しいウイルスに対して強い興味を抱いていた。
 そもそもインフルエンザウイルスの研究を二五年以上つづけてきた私にとっても、「新しいインフルエンザウイルスが人から分離された」との報告を受けるのは初めての出来事だ。いや、厳密に言えばH5N1鳥ウイルス以来のことだが、あのときとはすべてにおいて事情が違う。
 H5N1鳥インフルエンザウイルスが香港で直接人に感染し、三歳の男の子を死亡させたのは一九九七年のことだ。このウイルスが人にたびたび感染していることを知らせてくれたのは、インフルエンザウイルス研究界の第一人者で、私にとってはセント・ジュード・チルドレンズ・リサーチ・ホスピタル時代の恩師でもあるウェブスター博士である。恩師とともに私もこのウイルスの初期調査に加わったが、このときにはまだ鳥のインフルエンザウイルスが直接人にたびたび感染すること自体、私たち研究者でさえ半信半疑だった。

 H5N1鳥インフルエンザウイルスはその後も散発的に人に感染しているが、幸いなことに人から人へと容易に感染していくウイルスには変異していない。  一方、二〇〇九年に発見された新型の豚由来インフルエンザウイルスは、メキシコからの情報や、カリフォルニアでの感染例から見て、人から人へとうつるウイルスであると思われた。パンデミックになるかどうか、四月末の段階ではわからなかったが、新しいウイルスの研究には当然自分たちも参加したい。世界中のインフルエンザウイルス研究者たちは、誰でもそう思っていたことだろう。
 鳥のインフルエンザウイルスが人にも感染することが初めて確認された一九九七年と比べると、インフルエンザウイルスの合成も可能になり、今なら病原性が強まる兆候も調べられる。
 そこで、「何を明らかにすべきか」についてのブレーンストームを、急いで行うことにしたのだ。