プロローグ――「代理出産」問題とは何か
代理出産に寛容な日本人?
夫婦ともに子どもが欲しいと願っている。しかし、妻の身体に何らかの原因があって子どもを得ることが不可能あるとわかった場合、第三者の女性に産んでもらう「代理出産」という方法を、あなたはどう考えるだろうか。自分たちの血をひく子どもを授かるためなら、試してみたいと思うだろうか。それとも子どものいない人生もまた人生と、そのさだめを受けとめるだろうか。
そんな問いかけに対して、日本人は果たしてどんな反応を示すのか、ここに興味深いデータがある。厚生労働省は、二〇〇七年二月から三月にかけて、全国の二〇〜六九歳の男女五〇〇〇人を対象に生殖補助医療に関して意識調査を実施し、約三四〇〇人から回答を得た。その結果、「妻が子どもを産めない場合に夫婦の受精卵を使って他の女性に産んでもらう代理出産」を、五四%の人が「認めてもよい」と回答したのである。「自分が子どもに恵まれない場合に、代理出産を利用したいか」という質問には、「利用したい」が九・七%、「配偶者が賛成したら利用したい」が四〇・九%にも達したという。
他人が選択するにせよ、自分が選択するにせよ、代理出産という行為に対して、日本人が寛容である、ということをこの調査は裏付けたことになる。
ここで私が懸念するのは、この調査に参加した人が代理出産についてどれほどの予備知識や情報をもっていたかということだ。代理母には身体的にも精神的にも想像を超える苦痛があり、命を失うリスクもあるという認識はあったろうか。また、依頼者夫婦と代理母との間に起きたさまざまな事件や裁判など、その実態を知ってのうえだろうか。
人工授精型と体外受精型
代理出産の先鞭をつけたのは、常に時代のパイオニアを自負するアメリカである。記録上では一九七六年にアメリカ初の代理出産が行われたが、世間の関心は薄く、報道もごく小さな扱いにすぎなかった。
代理出産という方法に、にわかに関心が集まり出したのは一九八〇年代に入ってからだ。代理出産には大きく分けて二つの流れがある。一つは八〇年代半ばあたりまで主流だった「人工授精型」で、依頼者夫婦の夫の精子を代理母の排卵日に子宮に直接注入して妊娠させる方法である。この人工授精型による代理出産は、依頼者側の夫の精子と代理母の卵子を受精させるわけなので、生まれた子どもは当然代理母とも遺伝的なつながりをもつ。そのことが親子関係にまつわる数々の事件の発端になったのだが……。
その後、体外受精の技術が確立するにつれて、依頼者夫婦の精子と卵子を体外で受精させた受精卵を代理母の子宮に移植する「体外受精型」へと移行していった。この方法は、依頼者夫婦の受精卵を代理母の子宮で育てるわけだから、生まれた子どもは依頼者夫婦と遺伝的なつながりをもつ。つまり、依頼者夫婦の血をひく子どもが代理母から生まれるのである。生殖補助医療の技術が長足の進歩を遂げたことで、一昔前なら考えられなかった生命操作が実現可能になったのである。
代理出産がはらむ問題とは
しかし、一九八〇年代のアメリカは、法的にも環境的にもあまりにも未整備な時代であった。その間、子どもを欲しがる依頼者夫婦と代理母との間で、さまざまな悲劇と混乱が生じた。私はその八〇年代から、依頼者と代理母との赤ちゃん争奪事件をはじめ、数々の代理出産に関する事例の取材を重ねてきた。その揺籃期に「未知の選択」をした当事者たちを今回あらためて取材したのは、代理出産が生まれてきた背景とその後の変遷を、もう一度この目で確かめてみたいと思い至ったからである。
そこからどんな結論が導き出されるのか。当時の混乱はどう解決をみたのか、そこに新たな問題は派生していないのかなど、現在そして将来にわたって、代理出産がはらむ問題を明らかにすることが本書の目的の一つである。
さらにいえば、アメリカでの紆余曲折の背景を知ることで、いまだ法制度の整っていない日本の取るべき道も見えてくるのではないか。日本では「原則禁止」とはされているものの、具体的な法制化は何一つされていない。いまや代理出産は、巨大なマネーが動くビジネスとして世界を巻き込もうとしている。日本だけ「見えていない」ではすまされないのである。といって安易な法制定、生半可な容認は、かつてのアメリカと同様の混乱が起きかねない。だからこそ、議論を重ね、慎重を期した法整備が望まれるのである。
筆者は本書の執筆のために、マサチューセッツ州に住むマーケル家を取材した。マーケル家の歴史は、代理出産抜きでは語れない。長男は夫のグレン・マーケル氏の精子を代理母の子宮に人工授精させて生まれ、下の双子の兄妹は、マーケル夫妻の受精卵を代理母の子宮に移植してできた子どもだ。つまりマーケル家は、一つの家族で代理出産の歴史を体現しているのである。この家族、およびそこに関わった人々を取材することは、代理出産のはらむ問題を知るうえで重要な手がかりとなるはずだ。
夫婦が代理出産という方途に頼るまでの経緯、誕生後の経過、そして現在の心境を聞き、さらに、それぞれの代理母、代理出産で生まれてきた子どもたちにも話を聞いた。代理出産で生まれてきた子どもたちが、その出自も含めて自らの心情を語ることは稀有だと思う。
代理出産という方法でしか子どもがもてないカップルには同情の念を禁じえないし、筆者自身はいかなる代理出産も禁止すべきだと主張するつもりはない。ただ、背景を知れば知るほど、この子宮の貸し借りという行為に疑問をもたざるをえない。しかし、安易な「賛成」も、「反対」も事の真相をみる目を曇らせる。結論は急ぐまい。
何事についてもそうだが、どれほど筋が通った卓論であっても机上の空論であってはならないと、私は常々考えている。実際の現場では、予想をはるかに超えたことが多々起きるからだ。どれほど立派な卓論であっても実例の前にはものの見事に崩壊する。
代理出産の是非について、とかくすると表面的にしか論じられない傾向に一石を投じることができるかどうか。それは読者の判断に任せるしかないが、いま何が起きているのか、それを見届けるため、私なりに精一杯現場に足を踏み入れてみた。