手塚先生との出会い
戦後間もない、昭和二四年(一九四九)。
私はグラフィック・デザイナーになりたいという夢を抱いて、日本大学芸術学部へ進学するため、鹿児島から上京しました。
高校の同級生に、のちに有名な演出家となる和田勉がいたのですが、彼は卒業前に、東京へ転校していました。私は彼から、東久留米の浄牧院というお寺の僧房を、東京での下宿として紹介してもらい、そこに落ち着きました。
当時、その境内の一角に、女医さんが経営する診療所がありました。その壁には、『白雪姫』のイラストがたくさん貼ってあったのですが、実はそのイラストは、「小児科で診療を受ける子供たちが、少しでも和むように」と頼まれて、私が描いたものでした。
ところが、思いもかけずこのイラストが、その後の私の進路を変えることとなります。
このイラストを見た、近所に住む絵本作家の方が、私を“少年画報社”という出版社の社長に引き合わせてくれることになったのです。当時の少年画報社は、とにかく人手が足りなかったようで、元気でさえあればよかったのか、もしくはその絵本作家がよほど信用ある方だったのか、とにかくその紹介のおかげで、めでたく採用が決定しました。
もちろん、その時私はまだ大学生でしたので、絵本作家の方も学生にアルバイトを紹介するくらいの感覚だったのでしょうが、「卒業証書より実力だ」と考えた私は、さっそく大学を中退して、出版業界へと飛び込んだのです。昭和二七年のことでした。
さて、少年画報社へ入社して、いきなり大仕事を任されることになりました。月刊誌「少年画報」に作品を連載中の人気漫画家、手塚治虫(『サボテン君』)と福井英一(『どんどこドン助』)の担当です(しばらく後に『赤ん坊帝国』の高野よしてるも担当)。
しかし、大仕事とはいっても、実際の仕事内容は、いわば「作家の見張り役兼原稿運び担当」のようなものでした。とくに手塚先生は、常に編集者がそばにいて監視していないと、締め切りが競合する他社の原稿を描き出すので油断もスキもありませんでした。
当然ながら、新人の私は編集に関しては素人同然で、デスクワークはもっぱら編集長や先輩、同僚の担当だったので、このような仕事につかされたのでしょう。ただ、当時は雑誌の中でも漫画は軽い扱いで、小説や絵物語が記事の中心という時代でもあったのです。
担当を命じられた時、すでに『サボテン君』の連載は始まっており、私は前任者から仕事を引き継ぐにあたり、手塚先生に紹介してもらうことになりました。実を言うと私は、漫画は子供のころから読んでいましたが、愛読していたのは雑誌「少年倶楽部」(講談社)で連載されていた『冒険ダン吉』『のらくろ』などで、手塚先生については絵柄を知っている程度でほとんど白紙の状態だったのです。前任者に連れられて、初めて先生にお会いした場所が四谷にあった八百屋の二階の下宿だったか、トキワ荘だったか、今では記憶が定かではありませんが、先生の第一印象はよく覚えています。
こんなに若い人なのか!
なにせ昭和二七年といえば、手塚先生は前年に大学を卒業したばかり。私は漫画家というと、もっと高年齢の「画伯」というイメージを持っていたので、目の前の現代的でスマートな若者にすっかり驚いてしまったのです。手塚先生自身、東京に移り、これから本格的に漫画に取り組もうとしておられたころでした。