はじめに

 一七七六年七月四日にアメリカが独立宣言を発してから、二〇〇九年で二百三十四年目を迎えました。その二〇〇九年一月二十日に、史上初の黒人大統領として、バラク・フセイン・オバマ・ジュニアが第四十四代の新大統領に就任しました。ミドルネームのフセインは、彼の父親が、ケニア出身のイスラム教徒だったからつけられた名前で、イスラム信仰にはあまり熱心でない父親だったようです。大統領本人は、プロテスタントのクリスチャンです。またバラクは、黒人の面だけが強調されてきましたが、母親はヨーロッパ系白人なので、「純粋な混血」です。しかもハワイに生まれ、インドネシアに育った人間ですから、体内にはアジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ、イスラム、クリスチャン、黒人、白人、これらあらゆる国際的なカラーを秘めた大統領です。彼の政策については、のちに本文で紹介します。
 さて、ワシントンでおこなわれた大統領就任式は、黒人大統領の誕生による「平等社会」のスタートを祝う日だったはずですが、その国家は、あまりにも悲惨な経済的地獄にありました。
 しかも、「地球上で最も嫌われている国家アメリカ」でした。この表現は偏見ではなく、多くのアメリカ人の思いでした。ライバル共和党の大統領候補ジョン・マケインを圧倒的に打ち破り、全米が大統領選挙のオバマ勝利にわきあがった翌日、二〇〇八年十一月五日に?ニューヨーク・タイムズ?のヒトコマ漫画が描いたのは、知性あるアメリカ人自身の魂の中から噴出してくるある種の深い感慨でした。その漫画では、公園のベンチに座って、疲れ切ったヨレヨレの老人「アメリカ」に対して、オバマが元気そうに語りかけていました。「もう一度、僕と一緒に、世界の仲間に戻るんだよ、いいかい」と。
 八年間続いた長いブッシュ政権の悪政に辟易としてきたアメリカ人が、自分の国がほかの国から孤立している日々をどのように感じてきたかを、冷徹な目で描いた、哲学的な作品と言っていいでしょう。それは、ヒット映画『セックス・アンド・ザ・シティ』に登場した一種華麗なアメリカ人の日常世界とはまるで違って、オバマ大統領誕生によって再び生まれた「宝箱の希望」の裏にある、皮肉に満ちた人生観のワンショットです。
 そしてそれからほどなく、十一月二十三日には、?アメリカ歴史博物館が再びオープン?というヒトコマ漫画が掲載されました。博物館の中央に陳列されているのは、ガラスのショーケースに入った「一九四六年から二〇〇七年までの戦後ブーム」と題した模型です。そこには、四人家族が大きな二階家に住み、犬を飼って、自動車二台を持つ何でもない幸せそうな姿があります。博物館に来たアメリカ人たちがそのショーケースを取り囲み、黙ってじっと食い入るように見つめています。そのうしろにいる子供が、「本当に、こんなことがあったのかい」とつぶやいているのです。
 去年までの、その何でもないアメリカ人の生活が、もはや吹き飛んで、博物館に陳列するべき歴史的な遺物になった、というのです。その漫画掲載日は、全米一の商業銀行として君臨してきたシティグループが、週末の金曜日になんと株価三ドル台というただのような値をつけるまでに大暴落し、アメリカ人があしたに喪心して迎えた日曜日でした。株価の果てしない暴落は、アメリカ国民の投資意欲を反映していたのですから、金融の町ウォール街に対する失意こそが世論であったわけです。
 漫画ではなく、実際のアメリカ歴史博物館(NationalMuseumofAmericanHistory)は、首府ワシントンの有名なスミソニアン博物館にあり、アメリカ建国以来の誇るべき歴史を展示している場所です。ですから漫画の博物館は、それに代る博物館が「新装オープン」と訳したほうが適切かも知れません。奇しくもそれは一九六四年六月十九日、アメリカ上院が、人種差別に反対する公民権法を圧倒的多数で可決し、七月二日にリンドン・B・ジョンソン大統領が署名して成立した同じ年にオープンした博物館です。黒人牧師マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが、黒人に対する人種差別を撤廃させるために立ち上がり、「たとえ今日も明日も、われわれが困難に直面しようとも、私にはまだ夢があります」――“Istillhaveadream.”の言葉で知られる演説は、黒人だけではなく、白人を、そして全世界の心を燃えあがる感動で包みました。公民権法が成立し、アメリカ歴史博物館が開館する前年、一九六三年八月二十八日に二〇万人以上の参加者が集まったワシントン大行進の時に語られた歴史的演説でした。しかもエイブラハム・リンカーン大統領の南北戦争時代、一八六三年一月一日に黒人の奴隷解放宣言が発効してから、ちょうど百年後の出来事でもあったのです。そのキング牧師の遺志を引き継いだバラク・オバマが、瓦礫のように崩れたホワイトハウスに入り、いま漫画に描かれたアメリカ歴史博物館の陳列物を取り替えようと、大統領のデスクに就いたばかりでした。
 果たして、それができるでしょうか? これから、アメリカと全世界に何が起こるのでしょうか?
 私たちは今、一九八九年十一月九日にベルリンの壁が崩壊し、ソ連で共産主義が崩れ去った時と同じように、歴史的な日に立ち会っているのです。それからちょうど二十年後に、今度は、アメリカで資本主義が大崩壊したからです。