『蟹工船』と現状との間に

 二〇〇八年、未曾有】の『蟹工船】』ブームが巻き起こった。
 ブームのきっかけは、この年一月九日、毎日新聞東京本社版朝刊に載った作家の雨宮処凛さんと高橋源一郎さんの対談だ。対談を知った東京・上野の書店員が新潮文庫の『蟹工船・党生活者』を大量に仕入れ、それが売れ、驚いた新潮社が他の店にも勧めるとさらに売れ、各マスコミがそれを報じ……、と幅広い読者層にブームが拡大。この年の部数は五〇万部を突破した。
 この対談を企画した私は、自分のかかわった記事が思いがけず社会現象を生み出したことで、つい、うれしくなってしまった。同時に、八〇年も前のプロレタリア文学の流行は、若年貧困層をはじめ、世代を超えて多くの人々が抱く不満と連帯――つまり、人とのつながり――への渇望感をまざまざと示しているのではないかと感じた。『蟹工船』は、今の若年貧困層にも通じる絶望的な状況だけでなく、それを拒否して共に立ち上がる人々の姿を描いた小説だからだ。

 本書は、戦後の左翼文学、主に"新左翼"と呼ばれた運動とその周辺を描いた広い意味での文学(評論や手記、回想記、声明などを含む)を、ほぼ、題材となった出来事順に紹介して「物語」を紡ぐ。それらに、『蟹工船』の世界と今の閉塞感とをつなぐバトンがあると思うからだ。このバトンを、あえて「自分探し」と名付ける。本書は、戦後の左翼文学から今に必要なもの、つまり今の社会での連帯へのきっかけとなるものを提示する。新左翼理論史や戦後史の中での新左翼の位置づけといった「客観的」な記述にはならない。本書は、現実を読み替えるための「参考書」を目指す。
 さて、具体的な作品を取り上げる前に、この章では、なぜ「自分探し」をキーワードに新左翼を論じるのか、大枠を示したい。


ロスジェネと新左翼

 今、貧困層が多いとされる三〇代半ばから二〇代半ばの世代は、ロストジェネレーション、略して「ロスジェネ」と呼ばれる。一九七五年生まれの私もこの世代。雨宮や後述する赤木智弘らも、同い年だ。彼らや、さらに若い世代が持つ不満や渇望感を人とのつながりや具体的な取り組みに導く動きは、さしあたって、雨宮らのフリーター労働運動くらいしか目立たない。連帯の代わりには、二〇〇八年六月の秋葉原一七人殺傷事件が代表させられたような孤立感や、自分が何ものとしても、誰にも肯定されない無力感がクローズアップされる。また、そんな世代の不満や渇望感が注目を集めるのは、社会全体が自分たちの閉塞感をロスジェネに投影しているからのようにも思える。
 だが、戦後日本にも、"連帯"なる言葉が、あからさますぎるほど語られた時代があった。"連帯"は、数万のデモの波として街頭を占拠し、新聞の一面トップを飾った。この波を形作った人々が、新左翼だ。この波は、私の生まれたころには、すでに悲惨な殺し合い(いわゆる内ゲバ)に大体が入れ替わっており、今や一般には忘れ去られつつある(もはや内ゲバはほぼ収束したし、当時からの新左翼党派(セクト)やその流れをくむ運動団体は残っているのだが)。

 ロスジェネより下の世代では、「新左翼」という言葉自体、知らない人も少なくないだろう。新左翼は、旧社会党や共産党、旧ソ連など「旧左翼」より左側の過激な左翼のこと。「過激派」も一昔前まで新左翼を指す用語だった。今はイスラム原理主義のことだと思われがちだが。
 新左翼のルーツは、かなりの部分、共産党に裏切られたと感じた元共産党員ら若者たちが、独自の組織を作ったことにある。だから、一時期までの新左翼はおおむね、マルクス主義(社会主義、共産主義)を掲げて、日本と世界の革命を目指した。元祖サブカルチャー運動、既存権威の打ち壊し運動といった側面もある。

 ちなみに、今、左翼という言葉で連想されがちな「護憲」や「戦後民主主義」、旧社会党や共産党、あるいは朝日新聞や岩波書店は、新左翼にとっては大抵、無視すべき、あるいは批判すべきものだった。新左翼運動の最初の盛り上がりは、戦後の転換点の一つとなった六〇年安保。六九年ごろ、東大安田講堂の占拠などで知られる全共闘運動で全盛期を迎えた。そして、七二年のあさま山荘事件前後から、あっという間に、運動の規模としては盛り下がってゆく。その間、わずか十数年。新左翼という言葉を知らない人も、これらの運動・事件の映像や写真なら、どこかで見たことがあるだろう。
 関連する言葉をもう少しあげると、全学連、中核派、革マル派、革労協、日本赤軍、ノンセクト、バリスト、ゲバ棒、七〇年安保、よど号、三里塚……。一連の運動あるいは事件は、大学生中心の若者が巻き起こした。つまりもともとは、事実上、新左翼運動=学生運動だった。テリー伊藤、糸井重里、坂本龍一、内田樹、上野千鶴子、加藤登紀子、笠井潔、江田五月、立松和平といった人々も、かつては新左翼やその周辺にいた(らしい)。


新左翼と「自分探し」

 全盛期の新左翼活動家たちは、今語られるような貧困とは、さほど縁がなかった例が多い。もちろん、日本全体が貧しかった時代は学生たちも飢えていたが、当時の大学生は、いわばウルトラエリートである。出身階層も自意識も将来も、基本的には今の大学生よりはるかに恵まれていたといっていいだろう。「大学の大衆化」が叫ばれた全共闘のころも、大学進学率は二割弱にすぎなかった。約五割の今と比べれば、ずっと低い。だから、反体制的な学生運動などせずに(あるいは学生運動をしてすら)卒業すれば、終身雇用のサラリーマンとしての身分が約束されていた時代が長かった。
 しかも、六〇〜七〇年代初めは高度経済成長のまっただ中。成長の果実が、ある程度は社会のそれなりの底辺まで届いていたともいえる。
 たとえば、前述の対談に出た高橋源一郎は、新左翼経験があり、大学中退後に自動車工場などで働いた。その彼も、「最初は、雨宮さんの話をプロパガンダの一種ではないかと思っていたんです」と言う。つまり、高橋の経験に照らしても、今の派遣労働者の生活は想像できなかった。
 そんなこともあり、学生活動家や彼らのその後を描いた左翼文学では、『蟹工船』で描かれたような厳しい労働の現場は、あまり出てこない。その代わりに、今の若年層にも通じる運動参加者たちの心情が描かれてきた。

 新左翼とその周辺では、哲学者の廣松渉、経済学者の岩田弘らが、独自の理論を発展させた。ところが、当時の小説や手記を読むと、人々を運動に駆り立てた心情や運動内部で悩んだ問題は、廣松らの理論よりもずっと素朴に見える。それを端的に、「自分探し」と名付け直したい。
 当時の彼らの心情が、今のロスジェネより下の世代が抱く社会からの疎外感や「本当の自分」を探したがる感じ――雨宮処凛の言葉を借りれば、精神的な「生きづらさ」――に、ときにとても近く見えるのだ。