はじめに

 福井県のフクイリュウや兵庫県のタンバリュウ、福島県のフタバスズキリュウなど、日本では、しばしば大昔にいた恐竜や海竜の化石に「竜(リュウ)」の名が付けられる。
 実は、これは学名でも学術用語でもなく、ただの愛称にすぎない。学問的に意味があるのは欧文で書かれた学名であって、リュウの名は、あえて付ける必要がないのである。
 リュウは、もともと、「〇〇サウルス」といった形で恐竜などの学名に用いる「saurus, saur‐」の訳語として使われてきた。まず、恐竜(Dinosauria、ディノサウリア)という言葉自体がそうだし、有名なティラノサウルスは「暴君竜」と呼ばれる。
 だが、サウルスはトカゲを意味するギリシア語が語源で、リュウ(ドラゴン)にあたるギリシア語は別にある。〇〇サウルスという学名には本来、「〜なトカゲ」とか「〜な爬虫類」くらいの意味しかなく、当然、手に乗りそうなサウルスも何種もいる。でも、だからといって「暴君蜥蜴」ではしっくりこないし、昔は恐竜の代わりに「恐蜴」と訳したこともあったそうだが、定着はしなかった。
 日本の〇〇リュウの名も同じことだろう。学問的には何ら有効性のない愛称だったとしても、日本だけのローカルルールだったとしても、あのリュウの響きがあってこそ、子どもたちは太古のでかい生き物に特別の思いを抱くことができたのだ。
 そんなリュウの魔力にとりつかれたのだろうか、これまで日本のリュウにたくさんの人が関わり、時間と労力を惜しみなく注いできた。リュウは博物館や図鑑の人気者となり、ときには、まだ学名も付いていないうちから、「おらが地名」を冠したリュウをめぐって人々が一喜一憂したり、振り回されたりもした。
 本書は、そんな「リュウ」と呼ばれた化石たちのたどった数奇な運命をつづったものである。
 
 私は大学で地質・古生物学を学んでいたこともあって、新聞記者になってからも、この分野を取材する機会に多く恵まれた。
 その過程では、山深い峡谷の発掘現場とか、博物館のラボに鎮座する掘り立ての骨とか、化石研究ならではの珍しい光景に出会った。だが、取材を続けるうちに見えてきたのは、むしろ、ほかの取材対象と同じように人間くさくて、感情も欲望もある生々しい世界だった。
 多くの人は、化石なんてただの石ころで、社会生活にも大して関係ないと思っている。新聞の扱いも、同じく地中から出てくる遺跡や文化財に比べて良いとはいえない。最大だろうと、最古であろうと、世の中は少しも変わらないとでもいわんばかりに。
 でも、本当は違う。化石も人間の営みと深く関わっている。むしろ、化石を通じてしか語れない人の物語というものがあるのだ。あのリュウたちはときに社会を惑わせ、人の運命を狂わせる。本書にもあるように、それはときにミステリーであり、悲劇であり、その時代を人々が生きた証でもある。
 そもそも人がいなければ、誰もそれに気づかず、地層から掘り出すことさえない。歴史をひもとけば、その発見は開発や戦争といった、ある意味、非常に人間的な行為と密接に関わっている。
 博物館に陳列されている恐竜の骨格標本を見たら、まず、何を思うだろう。あれは太古に生きていたモンスターの亡骸なのだろうか。いや、それだけではない。あれこそ、たくさんの人間が様々な思いを投じて作り上げた“作品”なのだ。あの骨格の姿形すら、人が考えて、手を加えた知的生産物である。博物館の展示室に置かれるようになるまでに、いろいろな人が携わり、それぞれの苦労や思いがあって、ようやく、あの場所にたどり着いたのだ。
 今度、博物館を訪れたとき、そんなことを思い出してもらえたら――。それが、本書の出発点である。