プロローグ


 すっかりインターネット社会になってしまった。新聞に掲載されているニュースはパソコンや携帯電話でそっくり読める。動画映像も携帯端末で存分に楽しめる時代になった。
 さらにネットの侵食によって米国の新聞界は身売り・再編が相次ぎ、倒産した新聞社も出てきた。日本の新聞界も崖っぷちに立たされ、「新聞が消える日」が現実味を帯びてきた。
 テレビにもネットは侵食のピッチをあげてきている。欧米では「放送と通信の融合」が本格化している。日本のテレビ界も、及び腰ではあるものの放送済み番組のネット配信に踏みきった。新聞に続いて「テレビが消える日」も、やってくるのだろうか。

 とにかくインターネットは猛威をふるっている。それを如実に示すデータを、まず紹介しよう。
 ネット上の情報量は10年間で1万5404倍に膨れあがり、このため日本で1年間に流通するすべての情報量は530倍になったというのである。
 あまり注目されていない調査だが、総務省は毎年度、「情報流通センサス」というのを出している。各種メディアによる情報流通を共通の尺度で計量し、時系列的にその動きを把握しようというものだ。2006年度調査では、インターネット、テレビ、電話、データ電送サービス、電子マネーから新聞、書籍、封書など情報伝達手段を71選び出し、それぞれを計量化した。一般にいうメディアより相当、広義にとらえているから、71にもなるという。
 実際の計量においては、文字や動画などのさまざまな情報形態の情報量を、各メディアに共通な尺度として日本語1語を基礎とする「ワード」に換算している。例えば、日本語文章(漢字かな混じり文)の1文字を0・3ワード、話し言葉は1分で71ワード、音楽は1分で120ワード、カラーテレビは1分で672ワードといった換算比価を取っている。さらに、コンピューター上での日本語の1文字は16ビットであることから、1ワード=53・3ビットとしてビット換算をしている。
 06年度の情報量は、「2・28×10の20乗」ワードで、1996年度の数値と比べると530倍になっている。年平均伸び率に換算すると87・2%の伸びとなる。そのうちの98・8%はネットが占めている。テレビ、新聞など他のメディアは計1・2%にすぎず、ほとんどをインターネットの情報が占めている、というわけだ。ネットだけの情報量をみると、10年間で1万5404倍にもなっている、というのだ。電子メール、ブログ、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)、検索サイト、動画配信・投稿サイトなど、人々が日々、ネットにいそしむ姿が、こうした数値に表われてきているのである。
 筆者は熟年世代に属するが、これまでネットに関心が乏しかった友人、知人たちも、どんどんパソコンに熱中しだした。爆発的に情報があふれる中でコンテンツ産業、とりわけ新聞とテレビが影響を受けないわけがないのだ。
 それは、08年度に入ってくっきりと現れてきた。08年9月中間決算で朝日新聞が営業赤字に転落し、また産経新聞は経常利益が赤字になってしまった。ネットに恒常的に広告を奪われていることに加え、サブプライムローン問題に端を発する世界経済の急激な悪化で、自動車、電機などの大企業が軒並み広告宣伝費を大幅にカットしてきたためだ。「新聞が消える日」の予兆とも言えるかもしれない。 テレビもかなりの異変がおきた。08年9月中間決算で、東京キー局5社のうち日本テレビ放送網とテレビ東京の2社が純利益ベースで赤字に陥ってしまったのだ。他の3社も大幅な減益となった。新聞と同様、大手企業が広告宣伝費を大幅カットしたことが主因だが、企業側の広告戦略がテレビからネットへとシフトしていることも影響しているようだ。

 コンテンツと、それを伝達するメディア(媒介物)は、車の両輪のようなものである。技術革新によって新しいメディアが生まれるたびにコンテンツ産業は揺れ動き、浮き沈みを繰り返してきた。
 五十数年前にテレビが出現したことにより映画は斜陽化した。VTRが生まれた時も、映画界は警戒した。しかし、VTRによって映画の市場は拡大し、思わぬ救世主となった。CDが世に出た時、レコード業界は反発した。ところが、CDのおかげで日本の音楽産業は世界第2位の市場規模になった。テレビによって新聞とラジオは食われてしまう、という見方があった。ラジオは食われたが、新聞はテレビと共存した。
 インターネットの出現、それもナローバンドの段階から新聞、出版の紙メディアが侵食された。ネットのブロードバンド化により、今度はテレビがターゲットになることが必至となっているのである。
 光ファイバー網などによるネットのブロードバンド化は、この数年で急速に進んだ。ブロードバンドの契約数は08年末で、全国で約3000万となった。総務省のデータによれば、ブロードバンド契約者がダウンロードした1秒当たりの情報量は、統計を取り始めた04年9月と08年5月を比較すると、3・2倍にもなっている。
 ブロードバンドは、文字、写真、音楽などと比べはるかに情報量の多い動画映像を伝達する能力を持っている。ある意味では、テレビより優秀だ。テレビは「1対多」の一方通行だが、ブロードバンドでは動画映像を「1対1」でも「1対多」でも「多対1」でも送ることができる。しかも、送信、受信の双方向が可能だ。ブロードバンドを駆使すれば、誰でもテレビ局になれるのだ。

 そこで、「テレビはインターネットと融合すべきだ」という議論が本格化し、情報通信法という構想も浮上してきた。この際、放送と通信の法律をすべて一本化してしまおう、という政策だ。IT系学者、総務省系官僚や経済学者など、「通信サイド」といわれる人たちが音頭を取っている。「法律を一本化し融合を進めれば、日本のコンテンツ産業はもっと活性化する」などと主張している。
 筆者は、新聞記者を20年したあと、映像制作ビジネスにかかわってきた。その経験からすると、こうした動きには強い疑念を抱いている。通信サイドの人たちは、コンテンツ制作や創造の現場、あるいは「すべてのコンテンツには著作権がある」という事実について、あまり興味と関心がないようなのだ。
 インフラや法制度をいくら整えたところで、それだけでコンテンツ産業がにぎわいをみせる、などということはありえない。ネット、それもブロードバンド化によって、なるほどコンテンツを表現する場が飛躍的に広がったことは間違いない。しかし、インターネットがコンテンツを自動的にクリエートするわけではない。それに、ネットにコンテンツを流しても、それで収益が向上しなければコンテンツ産業は活性化しない。
 いや、表現する場が低コストで広がることにより、逆にコンテンツの価値が低下しかねないのだ。人々の頭の中には「ウェブ上の情報はタダ」という意識が刷り込まれており、ネットに流れるコンテンツにおカネを払おうとはしない風潮が蔓延している。インターネットの侵食により、コンテンツを創造する人たちに「利」が還元されないケースがすでに広がっているのだ。
 こうしたことから、コンテンツやコンテンツ産業の振興を、IT政策の一環として考えたら間違いである――というのが、筆者の訴えたいところである。

 インターネットによって、コンテンツ産業の立ち位置はどう変わっていくのか。その半分弱の市場規模を占める新聞とテレビはどうなるのか。「新聞とテレビが消える日」は近づいているのだろうか。あるいは既存のコンテンツ産業とネットとの間で、著作権や情報通信の体系についていかに折り合いをつけていくのか ――ホットな動きに目をこらしながら、こうした動きを俯瞰してみたのが、この本である。