Finally!(やっとだよ!)

 二〇〇八年一一月四日、カリフォルニア時間の夜九時すぎ。
 僕はオークランドから自宅のあるバークレー方面に向かって自動車を運転していた。突然、路上の自動車が一斉にクラクションを鳴らした。その音は街中から鳴り響いた。
 信号で止まると、一四、五歳の黒人少年たちが一〇人ほど、喚声をあげながら飛び出してきた。ここウエスト・オークランドは、全米でもっとも暴力犯罪の多い危険な黒人スラムだ。少年たちは運転席の窓を手のひらでパンパン叩いた。
 しかし、その手には銃やナイフはなく、みんな、満面に笑顔を輝かせている。
「オバマが勝ったよ!勝ったんだよ!」
 自動車がバークレー市内に入ると、今度は白人の男女が中央分離帯に立って、通りすぎる自動車に向かって段ボール紙に書いたメッセージを掲げている。“Finally!(やっとだよ!)”
 やっとブッシュの八年間が終わった、という意味だ。
 家に着くとテレビでは、オバマの勝利演説までの間、彼の過去の演説のビデオをいくつか見せていた。忘れられないのは、〇八年三月一八日にフィラデルフィアの国立憲法センターで行われたものだ。

 私はケニアから来た黒人の父と、カンザスから来た白人の母の息子です。
 私を育ててくれた母方の祖父は、大恐慌を生き抜き、パットン将軍の下でヨーロッパ戦線を戦いました。彼が戦場にいる間、祖母はフォート・リーヴェンワースの爆弾工場でアメリカのために働いていました。
 私はアメリカの中でもっとも優秀な大学(コロンビアとハーバード)で学業を修めましたが、世界でもっとも貧しかった国の一つ(インドネシア)で少年時代を送りました。
 私は奴隷の血と奴隷主の血を継ぐ女性と結婚し、私たちの血を二人の大事な娘に引き継ぎました。
 私の兄弟は、姉妹は、姪や甥や、おじやいとこは、あらゆる人種、あらゆる肌の色で、三つの大陸に住んでいます。
 そして、私は、生きている限り決して忘れません。
 私の物語が可能な国は、この世界中でアメリカだけだということを。

「私の物語」とは、「私のような出自の者がその国の国家元首になること」という意味だ。
 この演説を聞いたとき、僕がアメリカに来た理由がひさびさに蘇ってきた。
 僕は自分が何人なのか分からないまま、大人になった。
 母は日本人で、父は韓国人だったが、韓国の言葉も文化も歴史も何一つ、子どもに教えなかった。韓国について話すことすらなかった。生活スタイルは何から何まで完全に日本式。しかも、僕が中学のころに父母は離婚し、それ以降、父にはずっと会わなかった。
 にもかかわらず国籍は韓国で、名前も韓国名だったので、周囲からは韓国人として扱われた。
 一八歳になったとき日本に帰化したが、父が外国人だと語ると、周囲はやはり僕を外国人として見た。
 そんな自分が、ただ一つ落ち着けるのはハリウッド映画を見ているときだけだった。父は韓国のことを何一つ教えない代わりに、ハリウッド映画を見せ続けた。
 アフリカ系、イタリア系、アイルランド系、ユダヤ系、中国系、日系、ありとあらゆる「系」がいて、それぞれの国の苗字を持ちながら、みんな等しくアメリカ人として、刑事をしたり、ギャングをやったり、ラブロマンスを演じていた。そこには自分の居場所があるように感じた。「日本系日本人」以外に登場しない日本のテレビや映画よりも。
 編集者になって、そんなアメリカ映画に描かれる民族問題を徹底的に解説する本をつくろうと考えた。そのときにお会いしたのが、明治大学でアメリカの文化多元主義を教えていらっしゃった越智道雄先生だ。アメリカのことを何も知らない自分が思いつくままぶつける質問に、越智先生は次から次へと答えてくださった。
 先生のお話は縦横無尽だった。アメリカの民族問題や、政治、経済の解説にとどまらず、その背景にある建国以来のアメリカの歴史、さらにさかのぼってイギリスやヨーロッパの文化、さらにさらにその根底にあるローマ、ユダヤ、ギリシャの思想哲学へと掘り下げていったかと思うと、はるかに時を超えてそれを映画や文学、ポップカルチャーに結びつけ、海を越えて日本やアジアの文化や歴史に飛び、最後は我々の身近な日常感覚、人の生き方や感じ方へと着地させる。
 大統領の経済政策や、黒人スラムの教育問題、アメリカン・コミックスなど、何について越智先生にお尋ねしても、そんな時と文化を超えためくるめく一大トリップが展開するのだ。それ以来、僕は勝手に越智先生をわが師と仰ぎ続けて今日に至る。
 一〇年ほど前、ついに僕はアメリカに渡った。妻はアメリカの会社に就職し、子どもが生まれ、家を買い、イタリアやドイツやイランやクウェートやガーナやトルコやマーシャル諸島やインドや中国や韓国やモンゴルやグアテマラやメキシコから来た人々と近所づきあいしながら、ようやく自分の居場所が見つかったように感じた。
 ところが、9・11テロ以降、アメリカはどんどん壊れていった。どのように壊れたか、詳細は本文に譲るが、とにかく道理がまるで通らない理不尽な八年間で、星条旗の下の「合衆国」は、ブッシュを支持する田舎とブッシュに反対する都市部との二つに分かれて対立し、世界一の大国の威信は地に落ち、努力すれば豊かになれるはずのアメリカン・ドリームは住宅&金融バブルとともに粉々に砕け散った。
 Finally、その八年間は終わったが、新しい大統領オバマは、バラバラになったアメリカを再び統合し、壊れたシステムを変革し、希望を取り戻せるのか?
 自分では手がかりさえつかめないこの問いに答えて頂けるのは、越智先生の他にはいないと思った。先生はやはり、この歴史的な政権交代を、細かい政策論議をはるかに超えた人類史的視点に立って俯瞰していらっしゃった。
 先生のお話で、アメリカ建国からオバマ政権までの流れが非常に分かりやすく整理され、さらに、刺激的かつ含蓄に満ちた指摘で僕の目のウロコは数え切れないほど落ちまくった。この一冊は、これからの世界を展望する大いなる助けになるはずだ。