大坂城包囲網とは、関ヶ原の戦いののちに豊臣家や豊臣系の西国大名を封じ込めるために、徳川家康がきずいた城郭群のことである。
 従来は丹波篠山城や伊賀上野城など、大坂城を取り巻く畿内の城が包囲網の中心だと考えられてきた。ところが藤田達生氏などの近年の研究によって、その範囲はずっと広く、東は尾張の名古屋城、西は伊予の宇和島城にまでおよぶことが明らかになった。
 しかも包囲網はさらに西にのび、滝廉太郎の「荒城の月」で有名な竹田市の岡城にまで達していた可能性がある。というのはつい最近、岡城の改修が藤堂高虎の指示によって行なわれたことを証す文書が発見されたからだ。
『中川氏御年譜附録』によると、熊本へ上使としておもむいた高虎が、その帰りに岡城に立ち寄り、かねて親しくしていた中川秀成に大手口の向きを直すように指示したという。
 高虎は城作りの名手と称された男で、大坂城包囲網の城の普請をいくつも手がけている。
 その高虎が指示して改修したのであれば、あの切り立った崖に囲まれた巨大な城が、肥後の加藤家や薩摩の島津家にそなえたものだという考えもにわかに現実味をおびてくるのである。
 これまで関ヶ原の戦いに大勝したことによって、家康の優位は決定的となったと考えられてきた。
 西軍に加わった大名から六百六十万石もの所領を没収し、自分の息のかかった大名たちに自在に分け与えたのだから、その権力は磐石になったというのが一般的な見方だった。
 一方、かつての主だった豊臣家は、摂津、河内、和泉のうちで六十五万石を領する大名になり下がっている。それゆえ徳川家に対抗する力はなかったはずだという思い込みが、大坂城包囲網の実態を過小に評価させてきた。  しかし、こうした見方は修正を迫られている。
 家康は関ヶ原の戦いに勝った後も豊臣家の大老という立場でしか戦後処理をできなかったし、征夷大将軍になってからも、慶長十六年(一六一一)に秀頼を二条城に呼びつけるまでは臣下の礼をとらせることができなかった。
 また、徳川家の主力軍をひきいた嫡子秀忠が関ヶ原の戦いに遅参したために、戦後に恩賞として大封を得たのは加藤清正、福島正則、黒田長政ら豊臣恩顧の大名であり、徳川家譜代の大名は一人も西国に入ることができなかった。
 それゆえ東国の徳川勢、西国の豊臣勢という構図は、関ヶ原の戦いの後もいぜんとしてつづいたのである。
 家康が豊臣家をおそれる理由は二つあった。
 ひとつは桁はずれの経済力である。大坂城には秀吉が全国の鉱山から集めた金や銀がうなっていたし、城下や堺に住む商人たちは国内ばかりか海外とも手広く交易して莫大な利益をあげていた。
 豊臣家は大手の商人たちに運転資金を貸し付け、利益の一部を利息として回収するだけで、何十万石の大名の収入に匹敵する収益を得ることができた。
 家康はこの金を使い果たさせようとやっきになって寺社の造営をさせたが、大坂冬の陣、夏の陣を戦った後になお、大坂城の焼け跡から金二万八千枚、銀二万四千枚が発見されたという。その経済力の大きさは底が知れぬほどだったのである。
 もうひとつは秀頼が持つ権威だった。
 豊臣家の大老という立場で関ヶ原の戦いを乗り切った家康にとって、秀頼は戦の後も主君でありつづけた。家康が慶長八年(一六〇三)に征夷大将軍に任じられた時には、秀頼は内大臣に、その二年後に秀忠が将軍に任じられた時には、秀頼は右大臣に任じられている。
 これは家康が秀頼を主君として尊重している姿勢を示すために行なった任官だが、そうした措置をとらなければ世論の支持を得られないほど秀頼の権威が大きかったことも見逃せない事実なのである。
 しかも秀頼は、朝廷からも強く支持されていた。
 豊臣家は摂関家と同じ家格をもって設立されたために、秀頼は生まれながらにして公卿に任じられる資格を持っていた。この家柄だけは、家康が将軍になろうと右大臣になろうと決して乗り越えることができなかった。
 もし秀頼が成長した後、朝廷から徳川家討伐の勅命を得て兵を挙げたなら、西国にいる豊臣恩顧の大名たちはこぞって馳せ参じるだろう。関ヶ原の戦いの後に所領を削られた毛利家や西軍に属したために処罰を受けた島津家も、雪辱を期して立ち上がるにちがいない。
 そうなれば再び日本を二分した合戦になるだろうが、これに勝ち抜く自信は家康にはなかった。朝廷と主君という二つの権威が合体した敵に、立ち向かう名分がないからだ。
 しかも西国に比べて東国の経済力は格段におちる。
(とてもとても、勝てるものではあるまい)
 そう観念した家康は、正面からの衝突をさけながらじわりじわりと豊臣家の力を弱めていく戦略をとった。
 重き荷を負うて長き坂を行くがごとく、関ヶ原の戦いから十五年もかけて豊臣家の息の根を止める布石を打ちつづけたのである。
 大坂城包囲網の城郭は、こうした戦略にもとづいてきずかれたものだ。その中には名古屋城、姫路城、彦根城など、日本を代表する名城が多い。それらの城を訪ね歩き、関ヶ原から大坂の陣までの時代の移り変わりと、包囲網の実態について考えてみたい。