さて、裏の付く言葉の一つとして、「裏声」というものがあります。では、この裏声の奥深さは、どんなところにあるのでしょう。
裏声と言うと、「歌う」ことや「声色を変える」ことなどにはすぐに結び付きますが、日常生活のうえでは無縁なものと思われがちです。
たとえば女性に、「裏声を出してみてください」とお願いすると、多くの人が、ためらうように、恥ずかしそうに出します。それは日頃、出し慣れていないからなのでしょうか?いえ、実はこれには理由があるのです。女性にとって裏声は、意味のある特別な声だったからです。
一方、男性にお願いしてみると、出し終わった後に必ずと言ってよいほど、情けなさそうにニヤけるか、また、その逆に不愉快そうな顔をします。社会の第一線で戦っている男たちにとっては、むしろ“アリエナイ”声なのかもしれません。もちろんこれにも、その理由がありました。「裏声」には日常的に出し得ない、出しがたい理由が存在するのです。その理由とは何なのでしょうか?
実は、「裏声」は失われつつある声だったのです。誰しもが生まれながらにして持っている「裏声」を、使わないようにしてしまっていたのでした。はたして「裏声」は、もはや無用の声なのでしょうか?
では、今日よく耳にするセックスレス、ストレス、コミュニケーション不足、さらには一般市民が裁判に関わる裁判員制度など、一見、声とは直接的には関わりのなさそうなさまざまな社会的課題の一端が、「裏声」の活用によって解決の糸口を見出せるとなればどうでしょう。ないがしろにしていた「裏声」に関心を寄せたり、失われた「裏声」を取り戻してみようと思ったり、おそらく「裏声」に対する考え方を変えていただけるのではないかと思います。
私は今回、自分の専門である声楽発声学という限られた枠を超え、多方面の学問や先行研究を踏まえながら、“裏声による幸福論”を提唱したいと思います。そして理念だけにとどまらず、実際に「裏声」を鍛え、駆使することで得られる効果について、できるだけ具体的に提示してみました。
「裏声」がもたらす幸福は、単に声のあり方だけに限ったものではなく、人生にも素晴らしいものをもたらしてくれるものだと、私は信じています。
世の中のさまざまな問題と裏声の関係を考え直してみて、何よりも著者である私自身が「裏」という言葉の奥深さに改めて感銘を受けたのでした。
やはり、「裏」という言葉には、ウラがあるようです。