●最後まで残った「迷信」
この章を終える前に、一つ告白しておかなければならない。「神風」を否定していた父の影響でシャーマニズムの影を追い払い、科学の重要性を教えてくれた中村先生のおかげで「火の玉」をオカルト的現象と誤解せずにすんだ私だが、高校を卒業する時点でもたった一つ信じていた「迷信」があった。
虫の知らせ、である。
父が死んだ当日、父の実家で手帳やメガネを見つけたときの胸騒ぎだけは、科学では計り知れない霊的なものではないか。この思いが、どうしてもぬぐい去れなかったのだ。
もちろん、今はこれに対する解釈を述べることができる。ひと言で言えば、「偶然起きた二つの現象の重なり」である。
戦争終結を聞かされたその日から、私は「いつ父は帰ってくるだろう」「早く父に会いたい」と、毎日思いつづけていた。朝は父が帰ってきた夢で目覚め、学校からの帰りにも父の帰還を夢想し、寝る前には「明日こそ」と思いながら、一〇ヶ月を過ごしていたのである。
振り返ってみると、その間に印象的な出来事は数えきれないほどあった。たとえば県知事の訪問。当時の宮城県知事は父の同級生だったらしく、角田地区を視察した際、「佐蔵はどうしてる?」と、わざわざうちに立ち寄ってくれた。もし、この日に父が死去していたら、私はやはり「虫の知らせ」と感じたことだろう。
父の両親もしばしば私の家にやってきて、「佐蔵からはなにか便りがあったか?」と聞いていた。それらの日が父の命日だったとしても、私は「虫の知らせ」と感じたと思う。
あるいは、父が通勤に使っていた自転車が盗まれた日、私が自分の家で父の尺八を発見した日に父が死去していても、私はきっとそれを霊的なことと結びつけて考えたに違いない。
父を非常に尊敬していた私は、熱望していた父との再会がなかなか果たせず、深刻なストレスにさらされていたのである。それが一〇ヶ月もつづいたときに父の実家を訪ねる機会が訪れれば、父の匂いが残るものを懸命に探すのは当然だろう。この日父の手帳やメガネが見つかったのは、死んでゆく父からのメッセージでもなんでもなく、神経が過敏になっていた私が部屋の隅々を探索した結果にすぎない。
つまり虫の知らせとは、偶然二つの現象が重なったとき、自らの心から生みだされるものなのだ。
実をいえば、私がこうした考えに至ったのは一九六九年、早稲田大学の助教授になってからであった。私にとって、父親の存在がそれほど大きかったということだと思う。
だが、そののちオカルト批判をメディアで始めてからも、私はこのことをだれにも打ち明けられなかった。著書の中でも、虫の知らせに関する記述だけはあいまいにしていた。自分の弱みを見せたくないとの思いもあったし、打ち明けた結果曲解され、自分がオカルト寄りの人間だと思われるのを避けたかったからである。
この一〇年ほど、私は一般の方々からの相談も受けているが、「虫の知らせ」についてたずねてくる人は非常に多い。詳しい話を聞いてみると、やはり近しい人の死とその日に起きた出来事を結びつけ、深刻に考えすぎているケースが目立つ。自分自身の体験から、その気持ちはよく分かる。こうした方々に対しては、今述べたような解釈を示してはきたが、私もまた同じ思いを長年抱えてきたことを初めてここに告白する次第だ。
そして、改めて思う。身近な者に起きた不幸をなかなか忘れられずに苦しんでいる人につけ込み、「霊能力」や「占い」と称して金儲けを企むオカルト者を、絶対に私は許さない。