はじめに

 在日一世と聞いて、多くの日本の人々はどんなイメージを持つだろうか。そもそも、そんな言い方で表される「異邦人」がいることすら知らない人々が多いのではないか。
 だが、それらの人々は今でもこの日本で生きているのだ。もっとも、すでに本書に収められた証言者の何人かは鬼籍に入っているが。
 ではどうして、そのような無知が生まれてしまったのか。
 フランスの著名な中世史家のマルク・ブロックは、遺稿となった『歴史のための弁明』で時間の中における人間たちの学問(歴史学)がなぜ必要なのかについて語っている。その中でブロックは、「現在の無理解は運命的に過去の無知から生まれる」と指摘し、同時に「現在について何も知らないなら、過去を理解しようと努力してもおそらく同じように無駄」であると述べている。
 この碩学の言葉は、今でも傾聴に値する。ブロックの言葉を敷衍して言えば、在日一世という、現在を生きている人々の存在すら知らないか、知っていたとしてもどんな人々なのか、まともな像(イメージ)すら浮かばないとしたら、過去を理解しようとしても無駄ではないかとさえ思えてならない。
 なるほど、彼らは、「民族的少数者」であり、そのようなマイノリティの歴史やその心性について仔細に知らなくても決して不思議ではないかもしれない。またあえて言えば、彼らは、消えていくべき「歴史のあぶく」のような存在であり、その末裔もいつかはその「異邦人」の痕跡をかき消し、日本史としての国民の歴史の中に交じり合っていくはずだという、シニカルな見方も成り立つかもしれない。
 だが果たしてそうか。少数者であるから。非力であるから。そのような人々は、歴史学の辺境か「ゲットー」の中に押し込めておくべき存在なのだろうか。いや決してそうではないはずだ。なぜなら、歴史の真実さや誠実さは、細部に宿ることがあるからだ。すなわち、朝鮮と日本をまたぐ彼ら在日一世たちの生涯には、二〇世紀東アジアの「極端な時代」の陰影がしっかりと刻み込まれているのである。
 亡国と従属、流浪と離散、差別と貧困、解放と分断、内戦とクーデター、民主化と繁栄など。そこに刻まれた数々の苛酷な歴史のドラマは、涙なしには語りえない。彼らは多くのものを失った。しかし同時に、多くのものを得たのだ。そこには逆境に対する人間性の勝利の物語がある。
 だがそれにもかかわらず、彼らの生涯は、「未完」のままだ。なぜなら、統一されたコリアは未だ実現されておらず、コリアとその歴史も、そして彼らの過去も、砕け散った破片のようにバラバラにされているからである。
 彼らの存在に対する無知は、多くの場合、そのような破片が散乱した状態が余りにも長く続き、いまや、それが日常と化したからではないか。なぜなら、過去を再構成するのに役立つ諸要素をわたしたちが借りてくるのは、結局、日常の経験からなのだから。
 それでは、そのような散乱した破片を寄せ集め、彼らの歴史を再構成することは可能だろうか。もしそれが可能だとして、それは歴史学の公準にたえうるものであろうか。
 ブロックが批評家フランソワ・シミアンのことばを引いて言うように、過去と現在の人間の事象すべての知識が「痕跡による知識」であるとすれば、痕跡の中のあるものを存在へと呼び戻すことが歴史学に課された使命である。そしてそれを可能にするものこそ、「証人たちの報告」にほかならないとブロックは言う。
「証人たちの報告」。これをオーラル・ヒストリーと読み替えることは可能だろう。
 確かに、人の語ることや記憶には、誤りや嘘がつきものだ。その意味で、語られる証言は、歴史的考証の篩にかける必要がある。だが、思い違いをしてはならない。初めに史料があり、それを渉猟し、読み込み、その真正さや誠実さを吟味し、しかる後、証言に史料的価値が与えられるわけではないのだ。逆に、人が史料に問いかけるすべを知らなければ、それは何も語ってはくれないのだ。
 このことをブロックは、歴史研究においては「初めに精神がある」と断言した。この場合の精神とは、歴史の痕跡を示す証言に問いかける包容力と言い換えてもいい。もしそれがなければ、わたしたちは、過去の「年代記」に釘付けにされた考証の職人にとどまってしまうだろう。
 わたしたちが、単なる好古家に陥らないためには、「生きたものへの理解能力」が必要だ。この意味で、まさしくオーラル・ヒストリーは、それに応えてくれるのである。なぜなら、ここに収められた在日一世たちの証言は、生身の、それこそ、血の通った人々の肉声にほかならないからである。
 しかも、その肉声は、「観念の喙」から滑らかに押し出される声ではない。それは、うめきや叫び、嘆息や怒り、悲しみや喜びに満ちた、全身を痙攣させるように絞り出される肉声である。この意味で、ここに収められた在日一世たちの証言には、饒舌なおしゃべりとは正反対の、言葉のいのちが宿っている。たとえ、それが彼らの経験が脳に刻み込んだ一般的偏見を免れていないとしても。
 さらに何よりも在日二世のわたしには、彼ら在日一世たちの証言はあたかもわたしの歴史の一部、わたしの血となり、肉となった歴史の一部を語っているように思えてならない。なぜなら、彼らは、わたしの父であり母でもあるからだ。もはや、ここで語られているものは、わたしにとって史料として扱える代物ではない。それはもはや引き離そうとしても引き離しえない、わたしの肉の一部、骨の一部なのだ。
 とすれば、彼らの証言を歴史的考証の篩にかけ、しかるべき位置づけをそれらに与えることは可能だろうか。少なくともそんなことをわたしが出来るだろうか。そのためには、自らの「生体解剖」が必要なのだ。
 それを諦めたとき、わたしは苦心の末、想像的模倣とも言うべき手だてに思い当たった。それは、父や母が文字を知っていたならば、きっとこのように書き記し、語ったに違いないと思えるものを、なぞるように書き留めていく作業である。そこには、それこそ、虚と実とが入り乱れ、混じり合い、そして牽引し合う、わたしと一世たちとの生き生きとした交感がある。そのわずかばかりの成果はすでに『在日』(集英社文庫)のなかに活かされ、そしていま「母(オモニ)」(『青春と読書』に連載)となって形をなしつつある。
 もちろん、鬼籍に入った父と母との交感は、死者との心の交わりである。そしていま、わたしは本書を通じていまを生きる在日一世たちとの交感にひたることができるのである。