一九三一(昭和六)年九月一九日、東北砕石工場技師兼営業マンの宮澤賢治は化粧レンガを詰めたトランクを持って東京に向けて出発した。
病弱な賢治の健康を心配した弟の清六は、重い物を持っての上京に反対したが、賢治はあくまでも行くと言ってきかない。工場としては、東京へ行き、新しい仕事を獲得しようとする賢治に大きな期待をかけており、その期待に応えようとしたのだ。
(中略)
清六の反対を押し切って出発した賢治が小牛田・仙台・水戸を経て東京にたどり着いたのは、九月二○日の午後だった。神田駿河台の八幡館に宿を求めた。
八幡館はその後、空襲で焼け、跡地には現在、磯崎新設計のカザルスホールが建っている。
賢治の眼には、道路の向こう側に前年竣工したばかりの明治大学の校舎が見えたに違いない。
だが、この建物も現在、新しい近代的な校舎に建て替えられてしまった。
もともと健康に不安がある賢治だが、上京した早々発熱があった。
東北砕石工場社主・鈴木東蔵宛に、賢治は次のような手紙を書いている(九月二一日付)。
拝啓 昨日午后当地に着、早速諸店巡訪致し候へ共未だ確たる見込に接せず候。何分の不景気には候へ共、充分堅実に注文を求め申すべく茲三四日の成績を何卒お待ち願上候
賢治は、セールスマンとして東京に出張でやって来たのだった。当然のこと、結果(注文)を求められる。病を押して、営業をかけてみたものの、不景気もあり、注文は取れなかった。
その報告の手紙である。結果を首を長くして待っているに違いない東蔵に、三、四日待ってくれと書いている。相手に期待を抱かせるような内容の手紙である。
だが、実は賢治の身体の調子はかなり悪かった。同じ日付(九月二一日)で、自分が死ぬかもしれないと、両親宛に次のような手紙を書いているのだ。この手紙は、遺書と言ってもよい。
(中略)
かくして、東北砕石工場技師兼セールスマンとしての仕事は続けることができなくなり、遺書を書いた二年後の一九三三年九月二一日、賢治は三七年の生涯を閉じる。
現在、世界各地で読まれ、日本でもっとも人気のある作家のひとりである宮澤賢治だが、生前は詩集『春と修羅』、童話集『注文の多い料理店』の二冊を自費出版しただけの無名作家にすぎなかった。
生前に原稿料を受け取ったのは、わずかに一回。『愛国婦人』に掲載された「雪渡り」に対して支払われた五円のみ。原稿の売り込みなど、職業作家になるための努力は惜しまなかったのだが、ついに職業作家にはなれなかった。
資産家の家系に生まれた賢治の生涯を顧みると、天職を見つけるための闘いだったように思われる。
自分が何者で、どこに行こうとしているのか。常にそれを問いかけていた。「石っこ賢さん」と呼ばれた賢治が最後にたどり着いたのが、東北砕石工場の仕事。セールスマンとしての仕事はたいへんだったが、その仕事に賢治は生きがいをもって接した。おそらくは、童話や詩を書くのと同じような気持ちで。
賢治のなかでは、童話や詩を書くことが崇高な仕事で、セールスマンとしての仕事が一段低いというような意識は全くなかったはずである。
永遠の未完成を貫いた、サラリーマンとしての賢治に、本書で光を当ててみたい。