戦争ともなれば、自国民ばかりでなく、捕虜から占領地の敵国民まで食べさせなければならない。それができないと、資格もない連中が戦争を仕出かしたと長く批判される。そこで自国はもちろん、相手国の農事カレンダーを念頭に置いておく必要がある。
戦前の日本は、農業主体の国だったが、長らく主食のコメを自給できなかった。戦前の昭和期、内地産米は年平均九百五十万トンで、二百万トンが不足しており、朝鮮半島や台湾から移入して需給バランスをとっていた。ちなみに日本がコメを自給できるようになったのは、昭和五十三年からだ。
国内がそんな状況であったし、補給力の問題からしても、いざ外征となれば「敵に糧を求める」しかない。それならば作戦地域の農事カレンダーなど食糧事情が頭に入っているはずだが、実はそうではなかった。
昭和十二(一九三七)年十二月、日本軍は上海付近での激戦の後、南京に向けて進撃した。退却する中国軍によって目ぼしいものは徴発し尽くされており、そのあとを追う日本軍の手に入るものといえば、畑に残る白菜だけだった。生の白菜をかじりながらの強行軍、これでは将兵の心が荒すさむのも無理はないし、捕虜を適切に扱えない。その結果が、今もあれこれ語られる南京事件だった。
昭和十九(一九四四)年の夏、後述する一号作戦の後段、桂林や柳州を目指す湘桂作戦中のことだ。満目緑の田畑が広がるが、イネは穂すら出していない。食糧を現地調達しようにも、住民は皆避難しており、入手の策がない。結局、口にできるものは路傍のカボチャだけ。それも先行する部隊は手にすることができるが、後続する部隊はそれすら食べられない。入念に練ったはずの作戦でもこの有り様だ。
(中略)
アジアを知り、満州の農事カレンダーが頭に入っている人ならば、九月には火をつけない。これが春先だったならば、事情は一変する。端境期を迎える農村には、よそ者を受け入れる余裕はない。そこで敗残兵は、都市部に寄生するほかない。そうなれば治安当局の目も届き、上手くやれば満州国が新たに編成した軍や警察などに吸収することもできたはずだ。長年にわたって「支那屋」と呼ばれる中国通を育ててきた日本陸軍が、どうしてこの理屈がわからず、季節感を欠いた不手際を演じたのか、不可解でならない。