世界を引き裂くひき臼

 「あおい夜空は星の海よー、人の心は悩みの海よー」。溜息をもらしながら、涙声で母(オモニ)が口ずさんでいた「アリラン」の歌詞の一節です。波乱に満ちた悩みの海のような母の一生は、八十年の歳月とともに終わりました。人の世の酷薄さにあれほどまでに悲嘆に暮れることのあった母でしたが、晩年は、悩みの海に漂ういくつもの珠玉のような記憶を拾い集め、その中で微睡んでいるようでした。
 今にして思えば、母の抱えていた悩み、その苦悩は、海のように深く、広かったぶん、母は人として生きる価値を見出すことができたのかもしれません。結局、母は悩みの海に沈淪しながらも、生きる意味を問いつづける営みを棄てることはなかったのだと思います。
 強制収容所に入れられた体験を持つことでも知られる精神医学者V・E・フランクルは、「Homopatiens(苦悩する人間)の、価値の序列は、Homofaber(道具人)のそれより高い」「苦悩する人間は、役に立つ人間よりも高いところにいる」と述べています。極限状態を生き抜いた彼のこの言葉を聞くたびに、私は母のことを思い起こすのです。悩みの海を抱えていたからこそ、生きる意味への意志がより萎えることがなかったのだと思います。この意味で私の母は幸せだったのかもしれません。少なくとも、伝統的な慣習と信仰心を失わなかった母たちの世代には、悩みの海の夜空に輝く星がハッキリと見えたはずです。
 だが、もはやそうした伝統や信仰心の残り香すらも消え失せた時代には、悩みの海はただひたすら暗く、どこにも星が輝いているようには思えないかもしれません。悩みや苦悩は、意味のないことであり、価値などには一切関係のない、「厄災」以外の何ものでもないように思えるからです。
 しかし、本当にそうでしょうか。「悩む人間」「苦悩する人間」はただ、運の悪い不幸な人間にすぎないのでしょうか。
 本書では、誰にでも具わっている「悩む力」にこそ、生きる意味への意志が宿っていることを、文豪・夏目漱石と社会学者・マックス・ウェーバーを手がかりに考えてみたいと思います。
 なぜ、漱石とウェーバーなのかは、これから次第に明らかになっていくはずですが、悩みや苦悩と言っても千差万別で、個々それぞれに違います。とは言っても、悩みや苦悩を集合的に見るならば、そこには時代や社会の環境が大きな影を落としているはずです。
 母の場合で言えば、戦争や経済難、物資の困窮や差別などが、悩みの種になっていたと言えます。激しい混乱や価値の転倒が起き、生死の境をさ迷うような困難な出来事が母やその同世代の人たちを襲いました。そんな「極端な時代」が、母の人生と重なりあう二十世紀という時代でした。
 それでは私たちの時代はどうでしょうか。
 現代という時代の最大の特徴としてよく指摘されるのは、「グローバリゼーション」ということです。ここ十年ほどの情報通信技術の発達、とりわけインターネットをはじめとするデジタル技術の発達によって、政治も経済も思想も文化も娯楽も、あらゆるものが国境を越えて行きかうようになりました。
 他方、グローバリゼーションと並ぶ現代の特徴は、「自由」の拡大ということです。いまでは誰でもインターネットなどを通じてたくさんの情報を得たり、何かに自由に参加したり、あるいは何かを享受したりすることが容易になりました。その結果、一見すると、自由がいたるところにころがっているように思えます。
 しかし、自由の拡大と言われながら、それに見合うだけの幸福感を味わっているでしょうか。満ち足りた気分や安心感を味わっているでしょうか。
 幸福度が飛躍的に高まっているという話は聞いたことがありませんし、存外、いつも余裕なく急き立てられて、人と人との関係もパサパサな殺伐とした味気ないものになりつつあるのではないでしょうか。  経済人類学者のカール・ポラニーは、共同体の牧歌的な結びつきを解体していく市場経済を、イギリスの詩人ウィリアム・ブレイクの言葉を借りて、「悪魔のひき臼」と呼びました。
 ボーダーレスに広がる情報ネットワークと自由でグローバルな市場経済。誰もがその豊かさと利便性に与り、可能性としては多くの夢が約束されているように見えます。
 しかし、実際には新しい貧困が広がり、格差は目を覆いたくなるほどに拡大する一方です。
 しかも、誰もが新しい情報技術とコミュニケーションを通じてつながっているように見えながら、人と人との関係は、岸辺に寄せては消えていく泡のようにはかないようにも見えます。少なくとも日本や韓国を見る限り、多くの人びとがかつてないほどの孤立感にさいなまれているのではないでしょうか。そうでなければ、これほどの自殺者数の増加はありえないはずです。
 加えて、われわれにとってたいへんな重圧となっているのは、「変化」のスピードが猛烈に速いということです。
 たとえば、戦後だけを考えても、経済のコンセプトも、思想やイズムも、テクノロジーも、まるで流行のようにめまぐるしく変わりました。「不動の価値」というものがほとんどないことに気づきます。これに即して、人間も変化することを求められます。いつまでも古い考え方にこだわっていたら取り残されてしまいます。言ってみれば、「生か、死か」ではなく「変化するか、死か」というところでしょう。
 それでいて、人間というのは「不動の価値」を求めようとします。プロ野球の松井秀喜選手の本のタイトル『不動心』ではないですが、たとえば、愛や宗教。しかしそれとても、変化しないとは言いきれません。変化を求めながら、変化しないものをも求める。現代人は相反する欲求に精神を引き裂かれていると言えます。