訳者あとがき

 西のパレスチナ・ガザ地区から東のアフガニスタンに至る「中東」と呼ばれる広大な地域は、国際社会の安寧を左右する存在にほかならない。世界経済が大きく依存しているエネルギー資源をガッチリと握っている。その一方で、地域の内部では一触即発の紛争が絶えない。イスラエルとパレスチナの紛争、クルド人の動きをめぐる民族対立、レバノンにおけるキリスト教徒とイスラム教徒の対立や親シリア派と反シリア派の対立、そして、同じイスラム教徒でありながらスンニ派とシーア派の争いも次第に先鋭化している。これらすべての紛争でイランは重要な役割を演じており、地域全体の――そして、ひいては世界全体の――将来に大きな影響を与える存在になってきている。
 そのイランが秘密裏に核開発を続けている。二○○七年一二月、アメリカ政府は「イランは核兵器開発計画を二○○三年秋から停止している」という情報機関の報告書の一部を公開した。それならば、イランの核開発計画をめぐる疑惑は完全に的外れだったのだろうか。疑問は完全に解消したのだろうか。いや、そうではない。これまでイランは核開発計画の詳細を国連安保理や国際原子力機関(IAEA)に報告しようとせず、IAEAによる査察を拒否したり制限したりしてきた。それは軍事利用という目的を隠すためだと思われていたが、もし平和利用に徹するならば隠す必要などないではないか。かえって疑惑は深まる。
 イランの真意を探るためには、これまでの複雑な経過を冷静に検証し、問題点を一つひとつ解きほぐしていく以外に方法はない。アメリカや日本と異なり、ヨーロッパは中東と境を接しており、中東との間には対立と交流の長い歴史の積み重ねがある。それだけに、ヨーロッパには中東に対する思い入れもあれば警戒心も強い。本書の著者はヨーロッパでも有数の核問題の専門家で、これまで一○年以上にわたってイランの核開発計画に対処してきた。その情勢分析は多角的で傾聴に値すると同時に、アメリカのアプローチとは一味違うものを感じさせる。
 また、ヨーロッパはユダヤ人虐待という負の歴史から逃れることができない。その結果、ユダヤ人の国イスラエルの立場を理解すべきだという意識が働き、本書でも中東地域での核開発に対するイスラエルの動きを寛容に受け止めている。この点、中東情勢を善玉対悪玉の対立という単純な構図に当てはめることができないヨーロッパ人の深層心理を垣間見る気がする。日本の読者にとっても、それなりに参考になるのではなかろうか。
 私(早良)は、合わせて五年余りを放送ジャーナリストとしてイスラム系の国で過ごした。中でも、一九七九年二月、イランでホメイニ師のイスラム革命が起きた日の前後ひと月半ほどは、首都テヘランに滞在して取材し、ニュースを東京に送り続けた。近づいた私に銃を突きつけ、日本人と分かると途端にニコニコと握手を求めてきた革命防衛隊の若い隊員もいた。それだけに、今も私にとってイランの核開発計画をめぐる動きは遠い国の出来事とは思えない。
 本書は、二○○六年にフランス語で出版されたあと、数カ月後に英訳がイギリスで出版された。英訳には原書が出版されたあとのイランをめぐる情勢が著者自身によって書き加えられており、著者の勧めもあって和訳に際して英訳も参考にした。ちなみに、アメリカの国際問題専門誌『フォーリン・アフェアーズ』は二 ○○八年一月・二月号の書評欄で本書を取り上げ、「国際社会がイランの核開発計画に懸念を抱かなければならない理由を、確かな根拠に基づいて、簡潔に、そして明確に述べている。危機の現状を紹介し、いかに対処すべきかを説いている点で、簡にして要を得た本書にまさる類書を見つけるのは困難だろう」と推奨している。