日本の『六法全書』を開き、刑法第一八三条を見て目に付くのは、そこにはタイトルの「姦通」だけがあり、他の部分が全て空白になっていることである。しかし、空白になったのは一九四七年のことで、それまでの条文は次のようなものであった。「有夫の婦姦通したるときは二年以下の懲役に処す。其相姦したる者、亦同じ。前項の罪は本夫の告訴を待て之を論ず。但本夫姦通を縦容したるときは告訴の効なし」。この規定から分かるように、日本では従来、特に夫のいる女性が不倫した場合、姦通罪として処罰されることになっていた。実際、戦前の有名な詩人・北原白秋は姦通罪で逮捕されている。実は、戦前の日本では、多いときには年に数百人以上(例えば明治三十年は七百五十三人、大正二年は三百六十七人)、少ないときでも数十人以上が(昭和に入ってから)、姦通罪で起訴され、裁判にかけられていた。日本で姦通罪が廃止されたのはわずか六十年ほど前のことにすぎない。
 最も自由な国と思われる米国でも、姦通罪は、軍人の犯罪と裁判を定めている統一軍事裁判法上と宗教色の強い幾つかの州法上に今でも存在している。州法上の姦通罪はほとんど適用されていないが、統一軍事裁判法上の姦通罪は、軍の規律を維持するために時に適用され、毎年、十数人ないし数十人の軍人が有罪判決を受け、軽い刑罰を科せられている。しかし、かつての不倫に関する法律はこのような軽いものではなく、今の我々の想像をはるかに超える厳しいものであった。米国が独立する前から、キリスト教の一派であるピューリタンは、支配的宗教として社会の思想的及び社会的基礎を成し、あらゆるところで大きな役割を果たしていた。ピューリタンは性に関して極めて厳しく、特に姦通行為を宗教上でも世俗上でも重大な犯罪として、それに対する厳罰を説いていた。植民地時代からの米国法は、この影響を強く受けており、いずれも姦通を重大な犯罪として定め、死刑を適用するだけでなく、姦通を行った人を侮辱するための多くの法的措置をも用意していた。『緋文字』という有名な小説があるが、そこに書かれているのは、まさに十七世紀のボストンで夫の長期不在中に牧師と姦通した女性に対する侮辱的処遇である。
 現代の中国では、姦通しても刑事法上は何の問題にもならないが、三十年前の中国ならば、事情は全く異なっていた。当時、姦通が露見した者は、まず外国で言う刑罰に相当するような厳しい政治処分と行政処分を科せられた。例えば、情状の重い姦通者に対しては、不良行為罪として厳しい刑罰が言い渡された。姦通者の相手が軍人の配偶者であれば、軍人婚姻破壊罪として更に重い刑罰を科せられた。特に、党と国家の政策に関連して姦通行為が行われ、悪い影響を引き起こした場合、死刑もあり得た。
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 同じ銃の所持なのに、なぜある国では重い犯罪とされ、別の国では権利とされるのだろうか。また、同じ不倫なのに、なぜある時代においては犯罪とされ、別の時代では刑事法上問題でなくなるのだろう? 銃の所持そのものが国により違うのだろうか。あるいは、不倫行為自体が時代により変わったのだろうか。答えは「ノー」である。
 犯罪と言うと、まずある種の行為を考えがちであるが、実は、犯罪というものは、少なくとも二つの要素から成り立っている。一つは人間の行ったある種の行為であり、もう一つはその行為に対する社会や国家のある種の反応である。行為があっても、それを犯罪とする社会や国家の反応がなければ、犯罪としては成立しない。犯罪は、あくまでも行為と反応の統一体なのである。この反応が、空間(国や社会)と時間(時代や時期)により大きく変わるのである。
 銃の所持が、ある国では犯罪とされるのに、他の国において権利とされるのは、行為そのものが国により違うのではなく、それを犯罪とするかどうかという反応が国により異なるからである。同様に、不倫が重い犯罪とされる時代もあれば、刑事法上全く問題にならない時代もあるのは、不倫行為自体が時代の変化により変わったのではなく、不倫に対する社会や国家の捉え方が変わったからである。