一九九八年秋、僕はイギリスの医学校に入学した。そして、一医学生として医学教育を受け、イギリスの医師免許を得るに至った。イギリスと言えば、留学、駐在、旅行などで日本人にとっては馴染みの深い国だが、こと医学教育についてはほとんど知られていないのではないだろうか。日本で自分の経歴を話す時、イギリスの医学校出身だと言うと、
「イギリスの医学教育って、日本とは全然違うんでしょう?」
という反応が返ってくるのは無理もないことである。
 イギリスと日本の医学校教育を比べてみると、実は結構似ている点が多いことに気付く。高校卒業後に入学し、基礎医学課程、臨床医学課程を経て、初期臨床研修、後期臨床研修へと進む。また、両国では盛んに医学校のカリキュラムや臨床研修制度の見直しなども行われており、医学教育の現場はまさに過渡期にある。
 イギリスについてもう少し述べると、一九九〇年代後半のロンドン医学校群合併再編成に加え、慢性的な医師不足を補うべく、二〇〇〇年代に入ってから全国に新しい医学校が雨後の筍たけのこのように増えた。医学校のカリキュラムも毎年のように改定されていて、僕の学年が受けた教育と三年下の学年が受けた教育は結構な違いがある。また、これまでは一年間だった卒後初期臨床研修も、二〇〇五年度の卒業生から二年間に増やされ、その内容も日本のスーパーローテーション(二〇〇七年現在)と似たものとなった。
 このように、表面的なことを見ただけでは、日本もイギリスも大差がなく、一概にどちらが良いとも言えないかもしれない。だが、両者には一つ決定的な違いがある。それは、イギリスではすでに「患者中心の医学教育(Patient‐centred medical education)」が定着しているということだ。
 アメリカ留学が流行している昨今、アメリカの医学校や病院の留学体験記などを目にすることはあっても、イギリスの医学校の入学から卒業までを記した本はまだ見たことがない。それもそのはずで、そもそもイギリスの医学校に通う日本人は、数えるほどしかいない。しかも、彼らのほとんどは卒業後も当地に留まるので、日本に帰国の上、日本語で本を書くなど夢にも思わないことだろう。だから僕は数少ないイギリス医学校日本人卒業生の一人として、イギリスの医学教育の実態を紹介したいと思った。
 僕が学んだ医学校の正式名称はロンドン・キングス大学附属ガイズ・キングスコレッジ&聖トーマス病院医学校(King´s College London School of Medicine at Guy´s, King´s College & St Thomas´ Hospitals)である。昔はガイズ病院、キングスコレッジ病院、聖トーマス病院がそれぞれ独立して医学校を持っていたのだが、近年のロンドン医学校群合併再編成により、全てロンドン・キングス大学の傘下に入ったので、とてつもなく長い名称になってしまった。キングス大学としては簡潔に「キングス大学医学部」で済ませたかったところだが、ガイズおよび聖トーマス病院の名前が医学校の正式名称から消えることに反発する勢力(現在のガイズ病院および聖トーマス病院の医師、職員ら)がこれを許さず、なんとか妥協点を見出したのだろう。その歴史の長さから言えば、キングスコレッジ病院は三つの中で一番歴史が浅い病院(十九世紀に設立)で、十二世紀に起源を持つ聖トーマス病院とは月とスッポンほども違う。それゆえに、伝統を重んじる国イギリスでは、「聖トーマス」という名前には格別の重みがあるのだ。この歴史的観点を踏まえた上で、本書では表記の簡略化のために、聖トーマスと呼ぶことにする。
 僕はこの聖トーマスでの五年間にわたる医学生生活を通じて、イギリスにおける「患者中心の医学教育」を肌身で感じることが出来た。聖トーマスの教育現場での様々なエピソード、親友とのやりとり、心に残った指導医の言葉などを紹介しながら、「患者中心の医学教育」とはなんなのか、そしてそれがイギリス医療の根幹である「患者中心の医療(Patient‐centred medicine)」へとどうつながっていくのか、出来るだけ分かりやすく書いてみた。

 この本は過渡期にある日本の医学教育、医療制度を見つめる上で、大学病院や街の診療所における患者と医師、医学生とのかかわり方がイギリスと日本でどう違うのか、という視点で読んでいただきたい。「医師が患者を診療し、患者はただそれを有り難く拝受する」という「一方通行の医療」から、「医師と患者がお互いを教育しながら、力を合わせて患者のための医療を実現し、ひいては日本の医療の発展へつなげる」という「両方通行の医療」へのシフトが今後は必要になってくるだろう。「患者中心の医療」を実践するには、なによりも「患者中心の医学教育」が必要不可欠なのだ。
 僕自身、日本ではまだ実績のない新参者であるから、世界一働き者の日本の医師の方々に負けないよう、しっかりと研鑽を積み、まずは一人前の医師になるべく、鋭意努力を続けていこうと思う。