都市開発の手法を概観する

 成熟期の都市には、どんな都市計画がふさわしいのか。そもそも成熟期の都市に都市計画がいるのか、いらないのか。本書のポイントはそう要約できる。
 高度成長期から成熟期への急激すぎた転換。今日の日本をめぐる混乱の大半は、この「成熟期問題」に帰結する。年金や福祉の問題、外国人の受け入れの問題をはじめ、文化や芸能にいたるまで、「成熟期問題」と無関係に議論できる話題はないといってもよい。
 都市をめぐっても、われわれは他の国以上に深刻な混乱を体験している。巨大開発やマンション開発をめぐる近隣とのトラブルの激しさ、それに対する調停手法の未熟さ。加えて、都市景観の醜悪さも常々指摘されている。これらの混乱もまた、「成熟期問題」の大きなツケの一つである。
 しかし、そんな泣き言ばかり並べていても仕方がない。この悲しい時代の都市にはどんな処方が適切か。その分析の前に、都市計画的処方の選択肢のいくつかをざっと概観してみよう。大きいものから小さいものまで、派手なものから渋いものまで。

 オーバーオール型
 大きくて派手の極致は、一九六○年に首都となったブラジルの新都市ブラジリアのように、野原の上にゼロから都市全体をデザインする「オーバーオール型」の都市計画である。高度成長期にのみ可能な威勢のいい都市計画の手法である。しかし、中国ですら近い将来に人口の伸びが止まると予想されるような世界スケールでの「成熟期」に、こんな大げさな都市計画を本気で試みようとする人はどこにもいないし、そんなことの可能な土地も、地球の上には残されていない。

 再開発型
 もう少し小ぶりで現実的なものとなると、「再開発型」というのがある。ご存じの六本木ヒルズ型といえば、ピンとくるであろう。既存の都市の中の一部分をごっそりと建て直すのが再開発型である。なにしろ「ごっそり」だから、単体の建築の建て直しでは決して実現できないような様々な荒技が可能だ。中に広場を作り、道路をひき直すこともできる。一九三九年にコロンビア大学所有の土地に完成した、一四のビルからなるニューヨークのロックフェラーセンターがこのタイプの第一号といわれ、その後の二○世紀には、世界の都市で、このロックフェラーセンター型のコピーが濫造された。逆にいえば、それだけ二○世紀半ば以降の「成長」の時代にぴったりとはまった処方箋だったわけである。都市が高密化の圧力にさらされた時、一つずつの敷地単位でダラダラと低層建築を高層建築に建てかえるのではなく、いくつかの敷地を統合することで広場も緑も文化施設もある理想的都市環境を作ろうというのが、このロックフェラーセンター型のうたい文句である。
 このロックフェラーセンター型「ごっそり」に対しては当然、賛否が割れる。典型的な二○世紀の開発主義の産物で、時代錯誤もはなはだしいという否定的な意見。対して、グローバリゼーションで世界が小さくなった後の厳しい都市間競争に勝ち残るには、「ごっそり」の手法で都市を部分的にでも再生させない限り勝ち目はないという「開発派」も多数存在する。ただし、おそらくほとんどの人は、「新しい名所ができて楽しければいいじゃん。じきに次の名所が完成したら閑古鳥だよね。ざまあみろ」とささやきながら高みの見物を決め込んでいる。

 規制型
 では、もっと地味な計画はないだろうかというと、「規制型」がある。特定の地区にあるルールを定めることで、統一した都市景観を作っていこうとするものである。
 とはいっても「おまえの建物のここが醜いから壊して直せ」とか、「道路を広げたいから三メートル後ろにさがって建て直せ」とは現実にいえるわけもないから、実際には建築物が建てかわる時に、このルールを適用して後ろにさがってもらい、一定のルールに適した建築デザインで設計してもらうことになる。
 とすれば、これは恐ろしく気の長い都市計画ともいえる。こんな気の長い手法では実質上、都市計画はないに等しく、そんなことで都市間競争に勝てるわけがない、と憤る人もいる。
 そもそも都市とはそのように時間をじっくりとかけて整備されていくものだと気長に構える人もいるが、実際、二○世紀初頭以降、世界中のほとんどの都市に、この規制型の都市計画の網がかけられることになった。とりあえず行政当局にとってはそれしか選択肢がなかったというのが実情で、それが二○世紀都市における権力と市民との関係の現実であった。
 外壁はレンガにすること、といったたぐいの、材料から色まで厳しいルールが適用されている場所もあるし(主にヨーロッパ)、逆に高さや容積率(敷地面積に対して、建築していい床面積の合計が占める割合)だけを定める緩いルールで規制されている場所もある。が、ルールが一切ない自由放任の都市は、今やこの地球上にはまず存在しない。
 もちろん日本の都市も例外ではない。ほとんどの日本の都市はやや緩めの規制型都市計画でしっかりと縛られている。にもかかわらず、日本の都市は、人々が満足できるレベルにはほど遠い。

 規制型の限界
 では、なぜ規制型の都市計画は人々が満足できるような効果を発揮できなかったのだろうか。