「今の日本はどこかおかしい、なにかがおかしい」と思う人は、大勢いるでしょう。「あること」をきっかけにして、「なにかがおかしい」と思う――きっかけとなる「あること」は、人によってさまざまです。ある人は、「いじめの深刻化」を聞いて、「今の日本はおかしい」と思うでしょう。たとえばまた、「ニートやひきこもりの増加」とか、「格差社会の拡大」とか、通り魔殺人や、家族とか恋愛関係にある中での殺人の増加のように、人が人を殺すことが当たり前になってしまっていること――それを知って、「今の日本はなにかがおかしい」と思うでしょう。きっかけとなるものは、そういう深刻な社会問題から日常の些細な出来事まで、さまざまです。でも共通するのは、「今の日本はどこかおかしい」です。
 少し前まで、こういう感じ方をするのは、社会の一線から離れた老人の専売特許のようなものでした。自分の現在はそれなりに安定していて、眉をひそめさせるような由々しい事件は、「自分とは離れたところ」で起こる。だから、「今の世の中はどこかがおかしい。昔はこんなことがなかった」と言ったりもしたのです。でも、今の日本では、社会の中心で活動しているはずの人達でさえ、「“景気は回復した”と言うけれど、そんな実感はない」というような感じ方をします。そのような感じ方をするということは、ある意味でもう「格差社会」が当たり前になっているからです。自分は「世の中の一員」としてちゃんと生きている ――そうであるはずなのに、でも世の中は、その自分のあり方とは違うところで「自分の知らないような動き方」をしている――そう感じられてしまう。だから、「なんかへんだ」と思うのです。「きっかけとなること」はさまざまでも、総体としては、「なにかへんなことになっているのではないか?」という疑問、あるいは直感が、社会というものを構成している「現役の人達」にも働いてしまうのです。
 みんなが「社会の一線から退いた老人」になってしまったのでしょうか?「世の中のあり方と自分のあり方が一つになっていない」という点では、そうかもしれません。でも、今の老人は、「それなりに安定した現在」の中にいて、他人事のように「今の世の中はおかしい」と言っているわけではありません。そんなのんきなことを言っていられる老人は、おそらく少数派でしょう。今の老人が「今の日本はどこかおかしい」と言うのなら、それは、「あまり安心出来ない自分の現状」を前提にして発せられるようなものです。
「今の自分が世の中と関わっていないわけでもない。にもかかわらず、世の中は自分とは関係のないところでわけの分からない動き方をしている」――こういう感じ方は、別に新しいものではありません。こういう状態を表す「疎外感」という言葉は、一九五〇年代から一九六〇年代の間にもう一般化しています。ただし、その疎外感は「個人的なもの」で、そうそうやたらの人間の間で共有されるものではありませんでした。でも、今の日本の「なんかへんだ」は違います。「個人の疎外感」などという言葉を持ち出しても仕方がないところにまで来ています。そのことは、「地球の温暖化」というとんでもないものを例に取ってみれば、簡単に分かることです。
 自分がいて、その外側に「とても大きな異常事態」が進行しているのです。
(中略)
「今の日本の社会はどこかおかしい」という総体的な括り方が当たり前にあるのなら、その全体にまたがるような「原因」だって、あるはずです。もしかしたら、それは途方もなく大きな「原因」かもしれません。でも、「原因を突き止めたってどうなるわけでもない」ということと、「原因をはっきりさせない」ということとは、重なりません。「簡単な対処法はない」ということと、「だから原因を考えたってしょうがない」ということだって、やっぱり重なりません。
(中略)
「今の日本の社会」は、なにがおかしいのか? どうおかしいのか? この本は、その「なにかがおかしい日本」の、途方もない「原因」を探ろうとするものです。