うまれでくるたて
こんどはこたにわりやのごとばかりで
くるしまなあよにうまれてくる 宮沢トシ
宮沢賢治がこのうえなく愛した妹トシは、大正十一年十一月、結核のために二十五歳で世を去った。彼の詩『永訣の朝』は、「けふのうちに/とほくへいつてしまふ」この妹との痛切な別れを主題とした絶唱だが、これはそのなかで引かれた、彼女が苦しい息のしたで兄に語りかけたことばである。「原註」によれば、これは「またひとにうまれてくるときは/こんなにじぶんのことばかりで/くるしまないやうにうまれてきます」という意味のようだが、このことばの純度と透明さはちょっと無類のものだ。そこには乱れもなければ焦りもない。感傷もなければ未練もない。死を前にして、その存在のいっさいがすきとおってしまっている。そのとき、その謙虚で深い心が、おのずからこういうことばと化したのである。
池水は濁りににごり藤なみの影もうつらず雨ふりしきる 伊藤左千夫
明治三十四年、左千夫は、雨のなかを亀戸の藤を視に出かけた。この歌は、そのとき「藤」と題して詠まれた四首のなかの一首である。左千夫の作のなかで別に有名というわけでもなかったこの歌が人びとの知るところとなったのは、太宰治が、昭和二十三年の六月に自死したとき、これを、まるで遺書のように書き遺していたからだ。私は新聞でこの歌を読み、強く心をうたれた。死を前にした太宰がこの歌に託した暗い心がまざまざと感じられたからである。これは、この歌を詠んだときの左千夫が、それと相通じるような暗い心境にあったということではない。彼はたまたまやって来た亀戸での属目の情景を、余計な感情を混えることなく、あるがままに詠んだだけのことだ。だが、だからこそ濁った池水や降りしきる雨の姿が、ごく自然に身を起こして、暗い太宰の心をとらえたのである。
中原よ。
地球は冬で寒くて暗い。
ぢや。
さやうなら。 草野心平
草野心平がはじめて中原中也と出会ったのは、たぶん、昭和九年十一月のはじめ、心平三十一歳、中也二十七歳のときのことだ。中也は昭和十二年の十月に世を去ったから、彼らの交友は三年足らずしか続かなかったわけだが、中也の死後心平が書いた「彼の心象はかなしく澄み、いつも半音調の楽器がなっていた」ということばを見ても、その交友の深さと純度とがはっきりと感じられる。この詩は、昭和十四年に、同人誌「歴程」の「中原中也特集号」に「空間」と題して発表されたものだが、この詩の、およそべとついたところのない、いっさいの余計なものをそぎ落とした、いかにも男らしい立ち姿は、ちょっと無類のものだ。一見そっけないという印象さえ受けかねないが、眺めていると、中也に注ぐ心平のまなざしのやさしさとあたたかさとがおのずから浮かびあがってくる。
この本にまとめたのは、「東京新聞」夕刊の「生きる 心のページ」に、二〇〇三年一月七日から二〇〇六年九月二十六日まで、ほぼ毎週一回、「ことばの泉」と題して連載した文章である。古今の文学作品からばかりではなく、文学以外のさまざまな分野の人びとの文章や談話からも、すぐれたことば、印象的なことばを選んで、簡単な註解と感想とを付するというものだ。そういう依頼を聞いただけで、記憶の奥深いところに刻みつけられていたその種のことばが、ひしめき合うように身を起こして来て、私は、要するにこれらを毎週一つずつ取り上げればいいんだろうと考えていたのだが、どうもそういう単純な話ではなかったようだ。それらの名歌、名句、名言を何となく拾い上げて、それらに通りいっぺんの解説を加えたところであまり意味がない。そんなことよりも、あることばが、おのずから、私のなかに沈んでいた別のことばを喚び起こし、喚び起こされたことばがまた別のことばを照らし出し、かくして日本人のことばの生き生きとした持続を生み出すことが重要なのである。
だが、そうなると、第一回にはどういうことばを取り上げればよいか、なかなか思いが定まらない。「さてどうしたものか」と思いあぐねながら、凍てついたような白い冬空を見上げていたとき、宮沢賢治の妹トシが、臨終の床で兄に語りかけた「うまれでくるたて/こんどはこたにわりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる」ということばが、鮮やかに心に浮かんだ。これは賢治がその詩『永訣の朝』で引いていることばなのだが、このことばを想い起こした瞬間、私は、この連載の堅固でみずみずしい出発点をわがものとなしえたと言っていい。ここでトシは兄に何かを伝えようとしているわけではない。トシの心を通して、ことばという存在そのものが、無類の透明と純度に達している。そして、まさしくそれゆえに、彼女のこのことばが、私のなかに、伊藤左千夫の短歌や草野心平の詩を、まことに生き生きとしたかたちで甦らせたのである。
私が、賢治の『永訣の朝』を読んだのは、まだ戦後間もない頃だ。その詩によって私は一気に賢治にとらえられたのだが、戦後の混乱に引きずりまわされていた若い私を、このトシのことばは、鋭い痛みとともに、まるで光のように刺しつらぬいた。トシのことばに続いて、私が左千夫の歌を想い起こしたのは、私がトシのことばに味わった感触のせいだろう。彼の歌は、太宰治が自死の直前にまるで遺書のように書き残したことで私に強い印象を与えたもので、歌そのものは死とは関係がないのだが、にもかかわらず、トシと左千夫と太宰と私自身とをあることばの持続のなかに導いてくれるのである。さらにまた、草野心平の詩も、この持続の新しい展開を示してくれる。ここで彼が追悼している中原中也は、戦後間もない頃の私を決定的にとらえた詩人のひとりであって、賢治や太宰とともに、当時の私の精神的気圏を形作っていたのである。そういう意味でことばの持続を支えてはいるが、ここで友人中原に「中原よ。/地球は冬で寒くて暗い。//ぢや。/さやうなら。」と呼びかける心平のことばには、死と触れ合いながらも、ある不思議な明るさがしみとおっている。これは、連句における「発句」「脇」「第三」という運びのようなものだ。もっとも、私がそんなことを意識したわけではない。結果としてそうなったに過ぎないのだが。
もちろん、こういったことばかりが持続の展開の動機となっているわけではない。たとえば、私が日々経験する季節感が、私の記憶や想像力を、時には鋭く刺激し、時には微妙に誘って、私を思いもかけぬことばの発見に導いてくれたこともある。あるいはまた、安東次男と加藤楸邨とか、芥川龍之介と飯田蛇笏とかいった師弟関係や友人関係が、ことばの選択を導いてくれたこともある。さらには、友人や知人の死が、彼らの作品を前面に打ち出してくれたこともある。そういう意味では、これは、私自身の内的な日記であると言ってもいいのである。そして、そのことを通して、日本人のことばの持続の、けっして単調になることも一面的になることもない、多彩でみずみずしい表情と、しっかりと中味のつまった有機的な構造とが、多少とも現われていれば、大変嬉しいのである。