現代科学に「何か足りないもの」が感じられるとすれば、それは何でしょうか。さまざまな見方があると思いますが、私は次のように考えています。科学の中の科学の座に久しく君臨してきた物理学というものに注目しますと、この学問はこれまでもっぱら「命をもたないもの」を対象としてきました。そして、それを扱うのに最もふさわしい強力な方法を開発してきました。その方法は、ものごとをいったんばらばらな構成要素に分解することでその理解が得られる場合にはすばらしい威力を発揮するのですが、そうした行き方を徹底すればするほど、ものの生きた姿から遠ざかってしまうという弱みをもっています。それにもかかわらず、さまざまな科学が物理学のこのような方法を模範とみなす傾向が長く続きました。そのために、科学全体がいささかバランスの悪いものになってしまった観があります。そのようなバランスの欠如が、「何か足りないもの」という感じを私たちに抱かせるのではないでしょうか。
 バランスの回復をうながす復元力が、科学の歴史的展開には潜んでいるように思えます。近年、非線形現象の科学が華々しく開花したのも、機が熟して、そうした復元力が働きはじめたことの現われだと思えてなりません。この科学が、私たちの身辺にあふれている「生きているもの、あたかも生きているかのように振る舞うもの」に格別の関心を示すのは、右に述べたことからもごく自然に理解できるでしょう。それらはすべて、部分と部分とが緊密に関係しあうことでこそ命が支えられているシステムだからです。
 自然は複雑でやわらかな構造をもっています。それにすなおにフィットするような科学が今求められているように思います。そうした自然の記述方法を、非線形現象の科学はさまざまに模索してきました。聳え立つ堅固な建築物のような伝統的な物理学は、それ自身もちろんすばらしいものですが、非線形現象の科学はそれとは対照的に、はっきりした構造をもたない網目状の知識構造として、生きもののごとく成長していくのかもしれません。非線形現象の科学はまだ数十年の歴史しかもたない若い科学です。しかし、紆余曲折はあっても、今世紀においてそのような科学が(たとえ、名称はさまざまに変わろうとも)ますます必要とされることはほとんど必然のように思います。
 実は、本書を書くにいたったもう一つの動機があります。それは非線形現象というテーマとは直接関係がないのですが、日常の言葉で現代科学の内容をごまかしなく、またおざなりでもなく、どこまで一般の人々に伝えられるかということに私自身これまでひそかに関心をもってきました。新書という形でそれに挑戦してみたのが本書です。ちなみに、パラパラとページをめくってごらんになっても、数式というものはほとんど見当たらないでしょう。 科学の知識を伝達するうえで、日常語は大きな可能性を秘めていると、私はかねがね考えています。日常語は科学言語のような正確さや論理性には欠けますが、無数の実生活を耐え抜いてきただけに、頭脳よりも肌身にじかに働きかけてくる力がそこにはあります。工夫しだいで、日常語一つに豊かな情報を乗せて運ぶことが可能です。
 科学も単に論理一本やりの世界ではありません。それはイメージ豊かな世界であり、感じられ生きられる世界でもあります。したがって、そこには日常語で効果的に伝えることのできる多くの情報があるはずです。ごく基本的なロジックと組みあわせることで、日常語の潜在力を科学的知識の伝達のためにフルに生かすことはできないだろうか。それが可能なら、高校生や文系理系の大学生、サラリーマンや主婦(主夫)にとって、現代科学を今よりもずっと親しめるものにできるのではないか、と思います。その点では、非線形現象の科学は幸い一般の人々への伝達が比較的容易な分野だといえます。だとすれば、将来取り組むべきいっそう困難な作業のためにも、今回の試みはぜひとも成功させたいところです。