こんにちは。米原です。
 私が、「愛の法則」を研究しはじめたのは、中学生の後半ぐらいでした。すごく興味を持っていたんですね。セックスのことと異性のことばかり考えていました。当時、あまりテレビがなかったものだから、それらについての情報がいちばん集まるのは本だったんです。本をたくさん読んでいたので親は喜んでいましたけれども、私はそのところばかり興味を持って、『千一夜物語(アラビアン・ナイト)』は十三巻全部読んだし、文芸大作と言われるものはほとんど全部、読みました。
『三銃士』は皆さん、子ども用の『三銃士』しか読んだことがないでしょう? でも、あれは原典を読むとすごいですよ。ダルタニアンとミレディの濡れ場ばっかり、ベッドシーンばっかりですから。それから、『レ・ミゼラブル』って『ああ無情』って訳されてるけれども、この作品も子ども用のしか、皆さんは読んでないでしょう? 大人用の原典のほうを読んでないでしょう? 原典を読むと、コゼットのお母さんが売春婦をしていた話などもちゃんと出てきますからね。

 世界的名作の主人公はけしからん!

 そういうわけで、私は子どもの頃から文学少女というか、そういう本ばかり読んで育ちました。そしてそれを読めば読むほどだんだん腹が立ってくるんですよ。不愉快になってくる。なんでそんなに不愉快になったかと言うと、小説が全盛時代というのは十九世紀ですから、私が読んだのは大体十九世紀の小説なんですね。森鴎外とか夏目漱石とか永井荷風とか、あるいはツルゲーネフとかレールモントフとかバルザックとかヴィクトル・ユゴーとか、そういった作家の小説を読んでいて、なんで腹が立ったかと言うと、主人公は男で、ほとんど男の目で見た世の中のことが描かれているからです。主人公は醜男だったり、どうしようもない男だったり、いろいろなタイプの男が登場するんだけれども、男たちの恋愛対象となる、ロマンチックな感情の対象となる女というのは、みんな若い美女って決まっているんです。若いブスも若くない人も対象にならない。すごく狭いのです。
 私は当時、まだ中学生ぐらいで、若くはあったけれども美女ではなかったから、鏡を見て、ああ、私の一生は恋に恵まれないのだとずっと思い込んで、あきらめなくてはいけないんだなと感じていました。実際、その頃は恋の体験なんて片思いしかしていませんからね。恋の体験というのは全部、小説の中でしか体験していませんから。なぜ若くて美人なんていう、本人の意志ではどうにもならないところで男は選ぶんだって、けしからんって、そういうふうに思っていたわけです。
 では、小説の中の女はどんなふうに男を選んでいるかというと、これは結構、男の仕事ぶりとか、誠実なところとか、あるいはセックスがうまいとか下手とか、結構本人の努力の余地を残してあげているわけです。まだ救いがあるでしょう。小説も、十九世紀は大体そうなんだけれど、二十世紀も後半になってくるとようやく、美しくない女、あるいは若くもない女が案外恋愛をしていたりと、いろいろな可能性が出てくるんですが、それでも小説の本流は依然として十九世紀ですからね。

 もてるタイプは時代や地域で異なる
 なぜそうなったのか、なぜこういう理不尽なことがまかり通るのかと考えてみました。当時、まだ若いから浅知恵で私が考えたのは、女は生活もセックスも男次第という時代が長かったから、男の仕事ぶりとかで女は選んだけれども、男のほうは女によって人生を左右される割合が低かったから――ほんとうはそうではないのですが――ある意味で、純粋に好みで選べたのではないかと考えたのです。
 ところが、この好みというのがかなり曲者なのね。私はこういうタイプがいいわとか、僕はこのタイプが好みだな、なんて言っているでしょう。みんな個々別々バラバラだと思っているけれども、ある時代のある社会の一定の階層に属する人々の好みには、かなりはっきりとした傾向が見られるのです。その中にいるとわからないけれども、違う時代から見たり、あるいは外国から、ほかの民族から見たり、違う身分の人から見ると、明らかに好みにはある集団的な傾向があるのです。
 例えば、世界最古の小説と言われている『源氏物語』の主人公、光源氏。当時としては理想的な男性なわけです。姿形も美しいと言われている。でも実際、どんなタイプだったかと言うと、色白の下膨れなのね。これ、現代では絶対もてないタイプですよ。それから、浮世絵の美人画というのがありますが、浮世絵の美人って目が糸みたいにすごく細いですよね。これももう流行らない。あの絵を見て発情する男って、今はあんまりいないと思います。
 作家の司馬遼太郎をご存じだと思いますが、『竜馬がゆく』『坂の上の雲』などの歴史小説や、『街道をゆく』シリーズというおもしろいエッセイを書いています。オランダ紀行とかモンゴル紀行や、日本のさまざまな地方の紀行文であると同時に、彼は博学博識なので、その中でいろいろな考えを展開していく、大変おもしろいシリーズです。私はこのシリーズが大好きでほとんど全部読みましたけど、このシリーズやほかのエッセイでも、司馬さんは、民族ごとに異性の好みが違うということにふれています。
 その中の一つを紹介すると、モンゴルのような遊牧狩猟民族ではどんなタイプの男がもてるかというと、浅黒くて精悍ですごく男臭い感じの男がもてるんですよ。同じモンゴロイドでも、ヴェトナムは水田稲作だから定住型です。そこではどういうタイプがもてるかというと、おしろいを塗ったような色白のやさ男タイプが理想的な男性と思われているんですね。三波春夫って覚えていますか? 日本も稲作民族ですから、皆さんのひいおばあさんぐらいの年齢だと、三波春夫みたいな色白のやさ男がいちばんもてるタイプだったんですよ。
 これだけ見ると好みはまったく違いますね。ところが、もう少し分析してみると、おそらく豊かな牧草を求めて部族ごとに移動しなくてはならない遊牧社会においては、俊敏で剛健な肉体を持っていて、決断力に富む精神を持つ男、こういう男に権力が集中していくんです。権力が集中するということは富も集中します。定住型の稲作民族では、ほかの農民を搾取することによって働かなくてもよくなった男、これが富と権力の象徴なんですよ。表面的にはまったく違うように見えながら、実は女って結構計算高いんですね。意識のうえではもうほんとうに惚れたはれたで恋しているだけ。でも、潜在意識の奥の深いところで、もしかしたら計算しているのかもしれないですね。
 光源氏の時代の色白の下膨れの男って、もう働かなくていい男の姿形ですよね。富の象徴ですね。だから、こういう男がもてたんです。
 私の書いた本に『ヒトのオスは飼わないの?』というのがあるんですけれども、私、実は今、犬三匹と猫五匹と同居しています。いつも猫に囲まれているので、人間のオスより猫のメスとオスを観察していることが多いのですが、このメス猫というのが非常に好みがうるさいんです。計算しているかどうかは別にして、非常にシビアですね。いろいろなオスが近寄ってきても、嫌いなタイプだと嫌悪感丸出しで、ぎゃあぎゃあ言って追い返してしまう。これは大変残酷なもので、私はもうオスがかわいそうで見ていられないほどです。ところが、好みのオスがやってくると、自分のほうからいちゃいちゃすり寄っていくんですね。大体このオス猫は、人間から見てもいい男なんですよ。