僕の手許には今、『お伽草紙』と表紙に銘打たれた一冊の文庫本がある。太宰治の中期の作品を集めたこの文庫本には、表題作以外にも、十二の短編からなる「新釈諸国噺」と、さらに「盲人独笑」と「清貧譚」「竹青」の三つの作品が収められている。これらはすべて、日本や中国の古典、フォークロアなどを題材にして、太宰が新しい解釈を加えながら再構築した作品だ。デビュー後しばらくは、徹底した下降倫理の狂言回し役を自分に課していた太宰は、時局が戦争やむなしの方向に傾きかけ始める頃に、既成の物語や歴史の登場人物に自らのテーマを仮託する手法を、意欲的に選択し始めていた。つまりパロディだ。
ここで留意せねばならないことは、この手法を太宰が始めた時期は、言論や表現への統制・検閲が強化されつつある時期と、ほぼ重なるということだ。昭和十七年に太宰が「文芸」に発表した「花火」は、時局に添わないことを理由に、全文の削除を命じられている。左翼転向者でその負い目を生涯抱え続けていたと言われる太宰は、時局が激しく変わりつつあるあの時代に、どんな思いで執筆を続けていたのだろう。
だからというわけじゃないけれど、やはり時局が変わりつつある(戦後レジームからの脱却とはそういうことだよね?)と言われる今、既成の物語に触発されて創作するというこの手法を、僕も試してみようと思いついた。敗戦間近の防空壕で、五歳の娘に絵本を読んで聞かせる描写で始まる『お伽草紙』の前書きは、以下の文章で結ばれている。
この父は服装もまずしく、容貌も愚なるに似ているが、しかし、元来ただものでないのである。物語を創作するというまことに奇異なる術を体得している男なのだ。
ムカシ ムカシノオ話ヨ
などと、間の抜けたような妙な声で絵本を読んでやりながらも、その胸中には、またおのずから別個の物語が-醸せられているのである。(『お伽草紙』新潮文庫、一九七二年)
僕の場合はどうだろう。娘は二人とも、もう絵本を読んで聞かせるような歳ではないが、八歳になる長男は、今ならまだぎりぎり間に合う。
この父は、服装はよく見ればユニクロかイトーヨーカドーのバーゲン品ばかりで、容貌も愚なるに似ているし、元来ただものでないどころか、ただもの(標準)よりむしろ鈍いところがあって、物語を創作する術は体得できていないが、何の役にも立たない妄想に耽ることだけは、どうやら人並み以上にあるようだ。
補足しておかねばならないが、僕が部分的に「鈍い」ことは誇張や卑下ではなく、客観的な事実である。僕の友人なら、たぶんほとんどが同意するはずだ。高校一年の三学期、学級委員の石田君と副委員の山口さんが肩を並べて一緒に帰る後姿を眺めながら、「あいつら仲いいなあ」とつぶやいたら、「今ごろ何を言っているんだ」とクラスメートたちに呆れられた。公然のカップルだったらしい。僕だけが気づかなかった。そんなエピソードはいくらでもある。致命的に場を読めない。それは認めねばならない。時おり、いくつかのドキュメンタリー作品を引き合いに「タブーに挑戦する男」などと形容されることがあるが、目的意識や使命感があったわけではなく、要はタブーに対して鈍感なだけなのだ。
その鈍い男がまず取り上げるのは、同じように鈍い子供の話だ。王様は裸だと言った子供。同病相憐れむじゃないけれど、この子供のその後がずっと気になっていた。だからタイトルは「王様は裸だと言った子供はその後どうなったか」。
……そのまんまだな。とりあえず「(仮)」をつけておこう。もしも刊行時に「(仮)」がまだついていたら、この「容貌も愚なるに似ている」男には結局、これというタイトルは思い浮かばなかったと思ってほしい。