序 マスメディア論の不毛と現代社会

 テレビ報道の仕事に関わってからちょうど三〇年になる。この間、私はある在京テレビ局に勤務し続けてきたが、時代の流れのなかで、人々が報道機関、なかでもテレビ報道に向ける視線が大きく変化してきたことを実感せざるを得ない。いきなり具体的な話になるが、たとえば、街頭にカメラマンとともにマイクを持ってインタビューに出かける。私が駆け出しの記者だった一九七〇年代の後半頃は、こちら側の質問に答える人々には一種の照れのような表情が見られ、発せられる言葉のなかにはずいぶんと真摯な意図を感じることが多かった。
 いまでは、街頭で質問を試みても、どれだけの人が足を止めて答えてくれるか疑問だ。露骨に拒否の姿勢を示す人も増えた。若い人の多くはあっけらかんと答えてはくれるが、何かこちらが遊ばれているような感覚さえ持つこともある。テレビ報道なんかにまともにとり合ってはくれないのではないか。そんな不安がこころのどこかでよぎる。消え去ったものがあるとしたら、一方的な言い方になるけれど、それはかつての人々のなかにあった「真摯さ」だ。逆の立場からみれば、消え去っていったものは、テレビ報道に対する「信頼感」かもしれない。人々が変わったのか、それともテレビの位置づけが変わったのか。テレビ報道は、そのような「真摯さ」を受容するメディアではもはやなくなったのか。
 人々が社会のなかで日常生活を営むにあたって、情報を共有することは必要不可欠な作業だ。社会生活を営むとはコミュニケーションを営むことでもある。私たちは好むと好まざるとにかかわらず情報を相互交換している。そのなかで「情報の公共圏」とでも言うべき、その定義は曖昧ながらも確固とした領域ができ上がっている。たとえば、選挙の投票日はいつだ、公共料金がいつから値上がりする、税金がまた上がる、教育制度の一部がこんなふうに変えられる、年金の仕組みがこんなふうに変わっていく、政府の外交方針はこうだ、海外でこんなことが起きた等々。世の中で起きている出来事のなかの公共性の高い情報が一定程度共有されることで、私たちの社会は成り立っていると言っても過言ではない。
 それを報道機関に携わる者の側から言えば、報道者は人々の「知る権利」に奉仕するために仕事をしているということになる。このため、報道者はある種の特権さえ持っている。たとえば、人々が立ち入ることのできない場所に入場を許される。人々より先んじて情報の開示・発表の場に立ち会うことができる。記者証や報道腕章などという存在が、その特権の証明であったりする。その場合も、報道者は人々の「知る権利」の行使を代行しているにすぎないのである。つまり、そこで得た公共性の高い情報は、人々に返されなければならない。そのような機能が円滑に働くことによって、「情報の公共圏」は成立しているのである。
 だが、実際はどうか。人々のマスメディアに対する不信感は、このところ途轍もなく高まっている。それは原理的に言えば、マスメディアが本来果たすべき機能を果たしていない、ということになる。報道機関としての機能不全。言葉は単純だが、何がこのような事態を招いたのか、原因はそれほど単純ではない。