■政治的なクーデターが起ころうとしている
 唐突ですが、憲法及び憲法改正にまつわる基礎クイズです。合っているかどうか、○か×か、考えてみてください。

1 憲法は、法律の親玉みたいなものだ
2 憲法改正は、内閣及び総理大臣の主導で行うことができる
3 憲法には、国民が守らなければいけないルールや義務が書かれるべきだ
4 憲法は、国民投票で国民の四人に一人の賛成でも改正されることもある

 さあ、どうでしょうか。実は1から4までの答えは、憲法学的にいえば全部×です。全部が「そんなことはない」と否定されるものであるはずです。しかし二○○七年現在の日本、安倍政権下では、この項目の内容に近いことが行われている、または行われようとしているのです。
 安倍総理は、二○○七年一月の年頭記者会見で次のように述べました。
「今年は憲法が施行されて六○年であります。憲法を、是非私の内閣として改正を目指していきたいということは、当然参議院の選挙においても訴えてまいりたいと考えております」  全国紙でもテレビでも伝えられたこの発言に、私は非常に驚きました。
「内閣として憲法改正を目指す」ということ。「参議院選挙で憲法改正を争点にする」ということ。そして、「改正」といってはいますが、(自民党が掲げている新憲法草案をみればわかるように)実際は今の日本国憲法を捨て去り、まったく新しい憲法を作る「新憲法制定」をもくろんでいるということが、その理由です。
 これは、「政治的なクーデター」ともいえるものです。なぜなら、明らかに現行憲法の価値を否定し、憲法九九条に明記されている「憲法尊重擁護義務」の違反に当たるからです。総理大臣と国務大臣は、憲法尊重擁護義務を負い続け、内閣として憲法改正をめざしたり、ましてや新憲法制定など許されるはずはないのです。
 憲法は主権者である国民のものです。その憲法の力が政治家によって弱められ、ないがしろにされている――日本は今、そんな正念場を迎えています。ところが日本国民の間には、実にまったりとしたムードが漂っています。
 憲法が本来の力を失い、クーデターが起ころうとしている非常事態なのに、国民がこんなに平静でいられるのはなぜなのでしょうか。さまざまな理由があるとは思いますが、私は「みんなで憲法の話をしてこなかったからだ」と考えています。
 憲法の話だけでなく、国民の誰もが政治や法について議論する経験をしてこなかった、といえるのかもしれません。
飲み屋でサラリーマンたちが、会社の人間関係や景気、社会経済の話をしているのはよく目にするところですが、憲法論議をたたかわせている姿はあまり見かけないですよね。

■議論することが民主主義の基本では?
 私は司法試験を受験する人のための学校「伊藤塾」を主宰し、自ら教壇に立ち、またさまざまな人たちを相手に日々「法」について指導しています。塾だけでなく、大学に行って講義をすることもありますし、中学校や高校に呼ばれて話をすることもあります。
 子供たちや若い学生たちに接して感じるのは、あるテーマについてみんなで話をする、議論することに慣れていないなあ、ということです。私は中学時代をドイツで過ごし、外国人の友人も多くいるのですが、彼らと比べると、多くの日本人は自分の考えを否定されることをとても恐れているようです。
「自分の意見が人と違っていたらどうしよう」「こんなことをいって、“空気の読めないヤツだ”と思われたらどうしよう」と、まわりに同調しなければ、という強迫観念にかられている気がします。
 言い換えると、「今、この場でどういう意見を述べるのが、正解なのだろうか」ということを気にするあまり、自分の意見が自由にいえなくなっている、自分の意見を持てなくなっているようにも思えます。結果、何も考えずにすませてしまうのです。
 みんなで話し合う。議論することで、何が正しいかを考える――それが法の世界の基本であり、民主主義の基本です。
 もし正しい答えが最初から決まっているのだとしたら、それを見つければいいだけで、話し合いは必要なくなります。驚いたことに、司法試験をめざそうとしている学生でさえも、そういった民主主義の基本を理解していない人が少なくないのです。「自分の意見は控える」「大勢に従う」といった態度が、「大人だ」とか「日本人らしさ」だと誤解しているのではないか、と危惧してしまうほどです。
 ですから、伊藤塾の最初の講義では「各人がそれぞれの意見や考えを持ち、それを話し合うことで深め、何が正解なのかをみんなで見つけだしていくことが民主主義である。異なった意見を述べることは、議論を深める上で価値がある。人と違っていようがどんどん自分の意見をいうべきである」という、基本中の基本から教えなければなりません。
「まわりを気にするあまり、異なった意見が述べられない」――それは何も、若い人や学生、子供だけの話ではないようです。最近は、大人の世界でも感じます。北朝鮮の拉致問題やテポドン発射についての言説、ライブドア前社長の堀江貴文さんが逮捕された前と後でのメディアの反応など、マスコミや大人たちの行動をみていると、「これが正しいんだ」といった一つの意見が、わっと日本全体を覆ってしまい、反対意見や異論が述べられなくなってしまう傾向があると思います。それは健全な社会の姿とはいえず、民主主義でもありません。
 民主主義とは、選挙で政治家を選ぶとか、多数決で何かを決めるということだけをいうのではありません。何が正しいか正解がわからないから、みんなで多様な意見を出し合って、議論をして、より正しい答えを導き出していく、というものです。だから議論の過程がとても重要であり、自分とは異なる意見を尊重することも重要なのです。