まえがき
二十万円のスーパーコンピューター
一九八九年秋、一台のコンピューターが開発され、ちょっとしたセンセーションを巻き起こした。
一九八○年代当時、百メガフロップス以上の性能を持つコンピューターはスーパーコンピューターと呼ばれていた。フロップスとは一秒間に何回演算が行えるかを表す単位で、メガは百万のことである。つまり、百メガフロップスとは、一秒間に一億回の演算を行うことを意味している。もちろん、一秒間に一億回という演算速度は当時出回り始めたパソコンなどに比べて千倍も速く、科学技術計算、天気予報、自動車設計など、様々な分野で活躍した。まさにスーパーなコンピューターであった。
その開発は日米の国の威信をかけて行われ、アメリカのクレイ社、日本の富士通、日立、日本電気などの各企業が市場獲得のために競っていた。日米貿易摩擦の要因となり、日本にアメリカ製のスーパーコンピューターを導入するように圧力をかけられることもあった。
スーパーコンピューターの導入は通常、五年程度のリース契約で行われ、一カ月のリース代が約一億円だった。総額で数十億円、ときには百億円を超えた。
冒頭のコンピューターは、二百四十メガフロップス、つまり一秒間に二億四千万回の演算を行い、当時のスーパーコンピューターの性能に達していた。衝撃的だったのはその開発費だった。二十万円。通常のスーパーコンピューターの一万〜十万分の一だった。
開発チームの一人は、その差があまりに大きかったためか、なんだか実感のないつぶやきをした。
「ふーん、オレたちは二十万円でスーパーコンピューターを作ったのか……」
そのコンピューターの名はGRAPE(グレープ)‐1(ワン)といった。「Gravity Pipe(重力パイプライン)」から採った名称で、重力をパイプライン方式という手法で計算する。もう少しわかりやすくいえば、重力の計算が主体となる天文学だけのために作られたコンピューターであった。
ある目的のためだけに作られたコンピューターは専用計算機と呼ばれる。専用計算機であるGRAPE‐1は、どんな問題にも対応できる数十億円のスーパーコンピューターと一概に比較することはできない。だが、天文学者はふつう、自動車の設計などは行わない。逆もしかりである。ある分野の研究者は自分の解きたい問題にしか興味はなく、その問題さえ解ければ満足なものである。そこに専用計算機の意義がある。
GRAPE‐1は、完成した翌年に放映が始まったフジテレビの科学情報番組『アインシュタイン』の第一回で取り上げられた。番組の進行は当時の看板アナウンサー城ヶ崎祐子と松尾紀子。二人はそのコーナーを次のような象徴的な会話で締めくくっている。
松尾アナ「うーん、それにしてもスーパーコンピューターの十万分の一の値段というのは驚きですね」
城ヶ崎アナ「科学も安いに越したことはありません!」
天文学者による天文学者のための手作りコンピューター
GRAPE‐1がセンセーショナルだった理由はもう一つあった。それは素人チームの手作り計算機だったことである。コンピューター・メーカーも、コンピューター・システムを専門にしている研究者さえも、直接開発には関わっていなかった。
その当時、ある理論天文学者には自分の解きたい問題があった。それを解くために多くのコンピューターを試してみた。しかし、どれも計算能力が不足していて解けなかった。
ちょうどその頃、別の天文学者が「重力しか計算できないけれども、それでよいのならば速い計算機が作れますよ」というレポートを全国の天文学者に郵送した。
先の理論天文学者は、さらにいえば、この理論天文学者だけが、このアイデアに飛びついた。自らの解きたい問題を解くために必要なものが世の中に存在しないのなら、自分たちで作るしかないのではないか。そういう思いがその理論天文学者をつき動かした。そして、電子回路の製作に必要な実験装置など全くない自らの理論天文学研究室内で、コンピューター開発を開始する。
筆者は幸いにもこのプロジェクトの立ち上げに携わった。