プロローグ――名もなき人々の公民権運動

本当のヒーロー、ヒロイン

 公民権運動は、近年のアメリカ史のなかでももっともダイナミックな社会運動の一つである。それはただ単に「起こった」のでもなく、またただの「歴史」でもない。形はさまざまであれ、その運動は今も続いているのである。何世紀にもわたる忍耐と、アメリカの現実を少しでも良くしようという決意に動かされた一人一人の人間が、あらゆる法的、経済的、社会的、そして教育的な手段を使って、自分たちの権利と自分たちに対する敬意を長年認めようとしなかった社会制度を打破し、本当の権利と本当の敬意を勝ち取るために、文字どおり血と汗と涙を流してきたのだ。公民権運動を導いてきた黒人指導者たちの力強い人間性は、今もその当時も、多くのメディアをこの運動に注目させ、さまざまな角度から分析されてきた。
 しかし目を凝らしてみれば、何百という小さな市や町で、何千というごく普通の教会、学校やその地域の公民館などでは、まったく違った指導者たちが活躍していた。小さな町から外に出ればすぐに忘れられてしまうような彼らは、カリスマ的指導者のように注目を浴びることも、その名前を語り継がれることもほとんどない。しかし平等を求める運動では、倦うむことなく働き、電話で語りかけ、家々を訪ねては理解を求め、集会を開き、歩き、すわり込み、そして祈ったのである。この本はそんな普通のアフリカ系アメリカ人にささげられるものである。彼らはほとんど白人の助けを借りることもなく、子どもや孫がより良い人生を送ることができるように立ち上がり、自分たちが敬意と平等な扱いを受けるに値するのだという確信を実現するために、何度も死に直面するような体験をしてきた。あるときには、裁判所の判決がただ単に紙に書かれただけのものではなく、実際に効力を持っていることを世間に示すために、自分の子どもたちの命を危険にさらすほど大きな勇気を見せたこともあった。正義、自由、そして平等が合衆国憲法修正条項のなかに書き込まれてから一世紀後に、そこに書かれたことを現実にしたのは、男だけではなく、勇気ある女や子どもたちでもあったのだ。
 本書はそのような公民権運動の本当のヒーロー、ヒロインの物語である。焦点はこの戦いに関わった有名な指導者たちや大きな組織にではなく、「現場」に関わっていたごく普通の個人と彼らの勇気、犠牲に当てられている。また抽象的な「問題」やこの「運動」の概説にではなく、アフリカ系アメリカ人が日常生活で何を体験し、どんなことに反応をしていたのか、という具体的なことがらに焦点を当てている。
 公民権運動が始まった二十世紀半ばからすでに半世紀が過ぎた今、人種を問わずすべてのアメリカ人は一九五四年から六八年までの出来事を再検証し、そこから教訓を得、またそれを現在に応用しようとしている。また事実の正確さや商業的な成功にはさまざまな差があるものの、多くの映画がこの時期の出来事を題材にしている。そして今になってやっと明るみに出てきた新たな証拠に基づき、さまざまな人々や事件を見直そうとする新たな本、テレビの特別番組、新聞の論説が続々と出てきている。一九九〇年から現在までの間にも、正義を実現するのに遅すぎることはないと主張する検察官が、四十年も前に起こった公民権運動中の殺人事件、爆破事件などの犯罪に関して新たに公訴を提起し、有罪判決を勝ち得ている。
 このような例は公民権運動だけではない。初期の奴隷制も無視することはできない。二〇〇四年には、逃亡奴隷が北部やカナダに逃げられるように密かに援助していた秘密組織、アンダーグラウンド・レイルロード(地下鉄道)に関する資料を公開する「アンダーグラウンド・レイルロード博物館」が、また二〇〇六年には「国立奴隷制度博物館」が設立された。奴隷制度が最終的に廃止されてから約百五十年がたった現在、奴隷制に対するなんらかの賠償を要求しようという運動も始まっている。二〇〇七年八月には、一九六〇年代に制定された投票権法の条項の一部が期限切れとなるため、果たしてこの公民権運動の目的は達成されたのか、あるいはまだなすべきことが多くあるのか、議論は熱を帯びてきている。
 アメリカ合衆国の公民権運動は、一九五四年に突然始まり、六八年に突然終わったわけではないが、この時期は合衆国が政治的、社会的に大きな変化を遂げる重大な時期であったことは確かである。なぜならこの時期の出来事はアメリカ大陸における約三世紀半にわたる人種問題を反映しているばかりでなく、アメリカに、またアメリカと他の国との関係に多大な影響を及ぼし続けてきたからである。したがって、現在のアメリカ社会を理解しようとすれば、必然的に人種問題の意味、特に一九五四年から六八年にアメリカ南部の州で起きた黒人と白人の間の衝突に直面せざるを得ない。この本が焦点を合わせているのはそのような時期である。