はじめに――私たちの田舎暮らし

 東京生まれ東京育ちの私が、同じく東京生まれ東京育ちの妻と、信州に引っ越してから今年で二十四年になります。
 最初は軽井沢の別荘地のはずれに小さな家を建て、散歩とテニスとアウトドア料理を楽しんでいましたが、テニスのやりすぎか、酒の飲みすぎか、はたまた仕事のしすぎか、ある日突然、気持ちが悪くなってトイレに駆け込んだら一瞬で大量の吐血。体内を流れている血の半分くらいの量をいっぺんに吐いてしまいました。
 で、救急車で病院に運び込まれ、緊急輸血をしたものの、入院してからも下血が止まらず、さらに何度も輸血を繰り返した結果、肝炎ウィルスをもらってしまったのです。当時はC型肝炎の検査薬がなく、輸血を受けると十人に一人は肝炎にかかるといわれていた時代です。一九八六年二月、私が四十一歳になる年ですから、数えなら四十二。まさしく男の厄年でした。
 なお、吐血、下血、輸血を「三血」といいますが(いわないか)、「三血」の経験では、私が昭和天皇の少し先になります。肝炎のために再入院した病床で、チェルノブイリの原発事故と、スペースシャトル「コロンビア号」の事故のニュースを見たことをよく覚えています。
 結局、肝炎の症状がおさまるまでに、約二年かかりました。テニスもできず、酒も飲めず、ヒマ潰しに絵を描きはじめたのもこの頃です。
 同時に、妻が、隣町で広大な農園を営んでいる老婦人(この方も四十を過ぎてから本格的な農業をはじめたのですが)と知り合って、ハーブや花の栽培の手ほどきを受けているうちに、私たちも、軽井沢よりもう少し標高の低い場所に日当たりのよい農地を買って、畑仕事をやりながら老後を過ごしてはどうか……と言い出したのです。私は、絵のモデルになるきれいな花とおいしい野菜ができるならそれもよいか……という程度の軽い気持ちで、妻のアイデアに賛成しました。
 それから、御代田、小諸、北御牧、塩田、春日温泉……と、毎週のようにドライブして眺めと日当たりのよい土地を探し、約二年かけて見つけたのが、いま住んでいる東御市の標高八百五十メートルの里山の斜面です。一九九〇年に土地を買い、九一年に家を建てながら荒れていた桑畑のあとを開墾し、九二年にハーブとワイン用ブドウの苗木を植えたので、農業をはじめてからも、もう十五年が経つことになりますね。
 四年前には、自分の畑で育てたブドウからワインをつくりたいと、酒造免許を取得してワイナリーを立ち上げ、畑の野菜を料理して提供するカフェ・レストランもオープンしました。当初は、病気を契機になかば隠遁しようかと、静かな老後の生活を思い描いていたのに……まったく予測もしなかった事態を戸惑いながらも楽しんで、一昨年、還暦を迎えました。
 最近、田舎暮らしが関心を呼んでいます。とくに定年を迎える団塊世代に田舎暮らし希望者が多いようで、私のところにも、同じバックグラウンドで育った彼らに田舎暮らしの先輩としてアドバイスしてほしい、という、講演やインタビューの依頼がしきりに舞い込むようになりました。
 この本では、そうした質疑応答の中からわかってきた、田舎暮らしを望んでいる、または漠然と考えている、あるいは、とくに考えているわけではないが興味はある……というような人びとが知っておいたほうがよいと思われる項目について、私なりの経験にもとづいたお話をしたいと思います。
 もとより私の経験は個人的なものです。私の場合は仕事も特殊ですし、組織に属して働く人より住む場所を選びやすいなど、さまざまな面で条件に恵まれています。ですから私の経験が誰にでも役立つというわけではありませんが、リゾートとしての長い歴史をもつ軽井沢でのゆるやかな田舎暮らしから、いわゆる中山間地の農村地帯に入り込んで農業に従事するハードな田舎暮らしまで、この二十四年間に私が知った現実と変化するいまの状況は、多くの人が自分自身の問題として田舎暮らしを考えるときに、かならずなんらかのヒントを与えてくれるに違いありません。
 幸福な人生の選択のために、そしてありふれた日常に潤いと安らぎを取り戻すために、この本が住む場所と暮らしのかたちについて考える契機となればさいわいです。