あとがき


 二○○六年に亡くなられた吉村昭氏の歴史小説が大好きで、ほぼすべての作品を読んできた。数多く読んでいると、自分でも書いてみたくなる。今思うと冷や汗ものだが、実はこの「荻原重秀」研究は最初、吉村昭氏のような歴史小説を書こうと思ってリサーチを始めたのだ。しかし実際に最初の章を書いてみてすぐ、見通しが甘かったことを思い知った。人物造形が平板で、読み返してみると陳腐さにあきれるばかり。文学世界の構築は、我々には想像もできない、特別な精神作用によるものらしい。無謀な試みは、文学者への尊敬を再確認しただけで、たちまち終息してしまった。
 ところが、荻原重秀という人物への興味は、このリサーチによって、逆にますますつのる一方だった。もともとケインズに傾倒してきたから、第一次・第二次世界大戦のもっとも大きな原因の一つは金属貨幣制度(金本位制)だ、という図式が頭にある。ならば元禄の貨幣改鋳がどうしてそんなに非難されなければならないのか、いつかは誰かが実施に踏み切らなければならない作業だったのではないか。そんな割り切れない思いを、以前からもっていた。
 しかも、ちょっと調べただけでも、荻原重秀には貨幣改鋳以外に、各種検地・代官査察・鉱山開発・長崎会所設置・地方直し・大仏殿再建・火山災害賦課金など、実に多彩な業績があることがわかってきた。そして言われるような収賄だの専横だのという悪行は、『折たく柴の記』以外には何の根拠史料もないことも見えてきた。田沼意次のマイナスイメージも、松平定信らが残した史料によってつくられたものだが、とかく歴史は書き残した者勝ち、つまり勝者の歴史になりがちである。
 さらにリサーチを進めていくと、改鋳後の物価上昇幅がそれほどではなく、冷害の影響の方が大きかったことや、荻原重秀の死因について記した『兼山秘策』の活字本と写本記述の違いなど、驚くような事実にも出くわした。途中からはまさにワクワクドキドキの連続で、もう夢中になって史料を掘り進めた。幸い、江戸時代は他の時代に比べればはるかに史料が整備されていて、一次史料にも容易にアクセスできる。くずし字を解読するのはたしかに骨だが、当時の時代の息吹きを直接伝えてくれていて、それがまた楽しい。まさに寝ても醒めても荻原重秀、という状態で、どうやったら史料の不足という限界を突破できるか、四六時中、そればかり考えていたような気がする。
 余談だが、私は一九五八年生まれで、一六五八年生まれの荻原重秀とはちょうど三百歳ちがいだ。三○○は六○と一○○の最小公倍数だから、私と荻原重秀は、西暦末尾だけでなく、十干十二支も同じ戊戌(ぼじゅつ=つちのえ・いぬ)である。こうなるともう、荻原重秀に憑依された気分だった。戊戌というと高野長英の『戊戌夢物語』を想起する人も多いだろう。長英が同書で幕府を批判したのは一八三八年の戊戌で、重秀の生後一八○年、私が生まれる一二○年前である。
 そうこうして明らかになってきた荻原重秀像。小説は無理だとしても、なんらかの形に書き留めて作品化しておきたい。その結果、できあがったのが本書なのだが、これをどう呼べばよいのだろう。人物評伝と言うべきか、歴史ノンフィクションとでも言えばいいのか。
 しかし今の時点で振り返ってみると、小説を書くつもりでリサーチを始めたことは、怪我の功名というか、かえって良かったのではないかとも思っている。たとえば荻原重秀と父親との年齢差、生まれ育った場所、勘定所に召し出されたときに先輩勘定が何人いたかなど、小説を書くためには絶対に不可欠な情報だから、何が何でも確定するぞと必死になって探した。しかし歴史学の専門研究なら、そんなことは枝葉末節と考え、関心をもたないだろう。実際、ある有力な専門書が、延宝期の勘定定員を「不明」ですませていたのには驚いた。『寛政重修諸家譜』全二十二巻、数万人に及ぶ幕臣の中から、延宝二年(一六七四)〜正徳二年(一七一二)に勘定だった者を拾い出してエクセルファイルにリスト化するのは、丸々三ヶ月もかかった力仕事だったが、リサーチ初期に勘定所の電子名簿を完備できたことで、その後の執筆がすごく楽になった。これは西沢淳男氏の『江戸幕府代官履歴辞典』が、別の自著の付録CD‐ROMデータを書籍化したものであることから着想を得たものだ。