はじめに

 十九世紀末にハンガリーに生まれ、一九二〇年代に独特なヴィジョンでパリの街を撮影したことでも知られる写真家アンドレ・ケルテスが、一九七一年、七十歳代後半で出版した小ぶりな写真集に『本を開けばOn Reading』 があります。一九一五年以降半世紀にわたり、ハンガリー、パリ、ニューヨーク、東京など世界各地で撮影された、屋内外での無名の人々の読む風景、六六点のモノクローム写真。読んでいるのは、書籍もあれば、新聞や手紙などさまざまですが、いずれも対象から距離をとっての撮影で、当人は一心に視線を読みものに向け、カメラの存在に気づいていない様子です。なかに日本で撮られた写真があります。六八年秋の来日時のもので、電車内や路上の新聞・雑誌スタンドでの「読むひと」がとらえられています。
 ケルテスははじめて足を踏み入れた極東の地で、その年一月にこの世を去ったパリ時代のひとりの友人に思いをめぐらしたことでしょう。その男とは、明治半ばの日本に生まれ、人生の半分以上をパリに暮らし、最期はフランス人として亡くなった画家の藤田嗣治(一八八六―一九六八)のこと。二〇年代のパリで藤田ほどさまざまなスター写真家の被写体となった日本人はいませんが、なかでもその生々しい、エクゾティックな身体性を印象深く刻印したのはケルテスが随一でしょう。画家としての公式ポートレイトではなく、むしろアトリエや住居内での生活者としての姿です。そのなかに、一点、葉巻を手に読書にいそしむ彼を撮った写真があります。トレードマークともいえるおかっぱ頭に丸眼鏡とちょび髭、耳にはピアス、腕にはメタルのブレスレット。膨大な数にのぼる藤田の肖像写真のなかで本を読む姿はこれ以外ないといえるほどめずらしく、とはいえ不思議なほど板についた自然なショットです。
 二〇年代のパリで手がけた独自の「乳白色の下地」による裸婦や、太平洋戦争中の作戦記録画で一般にまで広く知られる藤田。そのそもそもの資質は多分に視覚的、感覚的であって、決して文人的な画家でないのは事実です。生前、三冊のエッセイ集を刊行するなど洒脱な文章を「書く」画家とはそれなりに知られていても、本を「読む」「彩る」「集める」側面からまとめて考えられることはこれまでほとんどありませんでした。現に、九〇年代初頭に藤田君代夫人よりフランス、エソンヌ県に寄贈され、二〇〇〇年に「メゾン=アトリエ・フジタ」として公開されることになる最晩年のアトリエ兼住居にも、寄贈の際、多数の家具や画材が残されていたものの、図書類が一切なく、関係者は長らく旧蔵書の行方をいぶかってきました。君代夫人は晩年、手元に留め置いていた画家の遺品を少しずつメゾンに譲っていきますが、衣類などの生活用品、絵画作品は含まれても、「紙まわりのもの」―日記、手紙、写真、図書類は出てきませんでした。結果的に、彼女はそれらを最期まで手元に置いていたのです。そして、二〇〇六年に東京国立近代美術館ほかで没後最大規模の回顧展が実現したのち、彼女は図書類をこの美術館にまとめて寄贈しました。そこから、長らく封印されていた藤田と「本のしごと」というテーマがあらためて浮上してきたのです。
 寄贈されたのは約五〇〇冊の書籍でした。藤田生前の蔵書だけでなく、没後の献本も含まれています。旧蔵書の大半は戦後、パリに永住した時期に現地や旅先で入手した美術書ですが、二〇年代を中心にパリで自ら手がけた挿絵本―オリジナル版画を伴う、刷り部数限定本―がかなり揃っており、驚いたことに、大半に藤田本人の字で入手した日付といくつかに価格が几帳面に書きこまれています。それらの日付は五〇年代、なかでも一九五九年に集中していました。
 自ら手がけた挿絵本であれば現物を持っているのが当然で、なぜ買い直す必要があったのでしょうか。実のところ、一九一三年からパリに定住していた藤田は、世界大恐慌の後に経済的、家庭的理由でこの街をいったん離れる際、手元に置いていた図書も手放していたのです。日中戦争から太平洋戦争期の母国での暮らしを経てふたたびパリに戻ったとき、失われた青春期のかけらを集めるかのように、一冊一冊手元に戻していった画家。なかでも、二〇年代の挿絵本約二〇冊というかつての労作を古書であっても手元に取り戻そうとした行為は、自らの「本のしごと」への愛着、執着を物語ります。二〇年代のパリには数百人もの日本人美術家がいたといわれますが、いくつもの美術展への入選のうえに挿絵本の注文が続いたのは藤田だけです。その意味でも、彼のプライドの象徴でもあったはずです。

 この本では、画家・藤田嗣治が八十年を超える生涯のなかで、母国日本や第二の祖国となったフランスなどで関わった「本のしごと」―書籍や雑誌を対象とした表紙絵や挿絵―から約九〇冊を、彼の旧蔵書を中心に、国内の公共図書館や個人コレクションを交えて編年的に概観していきます。「装幀」ではなく「本のしごと」とするのは、大半が戦前の出版のため、藤田が表紙絵や挿絵を手がけているのはわかっても、版型、文字の書体や用紙の選定といった造本全体のどこまで関与していたのかはっきりしないからでもあります。彼は職業として装幀に取り組んだわけでも、専門教育を受けたのでもありません。あくまでもアマチュアとして、本を装うことにゆるやかに関わっていました。藤田は、本づくりが「活版印刷」という手作業で行われていた時代に、「手しごと」度の高いイメージを提供したのです。
 藤田がフランスで戦前戦後に手がけた挿絵本については、一九八八年に目黒区美術館で開かれた『レオナール・フジタ 絵と言葉展』で、ピノ・マラス氏のコレクション五三冊が公開されたことがあります。私も学生時代にこの展覧会を見て、大きな感銘を受けました。そこから四半世紀近くが経過し、本書では「版画・素描・水彩」=「紙の作品」というよりも、「イメージ」と「テキスト」が共存する場としての「本という媒体」に注目しながら、おもに戦前期の作例を見ていきます。さらに、二〇年代までのパリでの経験や人脈を生かしつつ、三〇年代から四〇年代という戦中期の日本で関わった出版物の主要なものを交えて、はじめて総体として紹介します。
 一点ものの絵画作品に対し「本のしごと」は複数存在するものですが、出版部数が限られるうえに版元も多様で、かつ分野や媒体など裾野が広く、本人ですら全貌を把握していなかったのも当然です。今回は同時代の絵画や写真なども併用しつつ、生前の主だった「本のしごと」を藤田の創作活動のなかに位置づけていく試みとなります。この分野は本のテキストの著者、出版社(編集者)などという他者との協働、そして本という限られた体裁(版型や造本)を前提とする作業という点で、彼にとって絵画制作とは一線を画すものでしたが、それゆえにかえってくつろいだ柔軟性といまなお新鮮な独創性を見せる作例が生まれたのかもしれません。
 では、ここから「本という媒体」を対象とした「手しごと」に魅せられていた画家の姿をたどっていきましょう。