はじめに 広重『富士三十六景』の出版

 安政五(一八五八)年九月六日早朝、歌川広重が歿した。享年は満六十一である。死因は当時猛威を振るっていたコレラらしい。
 広重の最後の作品は『富士三十六景』三十六図で、版元は蔦屋吉蔵である。揃物(シリーズ物)の『富士三十六景』には本の表紙に当たる目録が付いている。その目録の改印は安政六年六月だから、刊行は同年秋頃とみられる。ちょうど、一周忌の頃である。
 いま「絶筆」と書かず「最後の作品」と書いた。それには理由がある。
 浮世絵は木版画と肉筆画に大別できる。主流は木版画で、その木版画は検閲されていた。
 肉筆画は筆と絵の具とカンバスに類するものさえあればいつでもどこでも描ける。そのため、肉筆画を検閲したいと考えても実際には不可能である。しかし、チームを組んで制作し、完成まで時間がかかる木版画は検閲が可能である。
 つまり、江戸時代の浮世絵版画は検閲を通らない限り出版できなかった。表現の自由はなかったわけで、先ほどの改印という語は幕府が出版を認めた印をいう。
 『富士三十六景』本体の改印は広重が亡くなる五ヵ月前の安政五年四月である。ということは、死亡以前に版下(版刻用の最終原稿)が出来あがっていたことになる。
 広重はそのため、四月以降、他の絵を描いていた。晩年の代表作『名所江戸百景』の刊行も続いていた。ところが、秋九月、突然、広重は彼岸の彼方へ旅立ってしまったのである。そのような事情で、出版は歿後一年くらい経ってからになった。そういう意味で、「絶筆」と書かず「最後の作品」と書いたのである。
 富士山を描いた浮世絵師といえば葛飾北斎が有名だが、広重もたくさん富士山を描いている。『名所江戸百景』百十八図の中で富士山が出てくる絵は十九もある。大ヒット作『東海道五拾三次(保永堂版)』にも富士山を描いた絵はたくさんある。また、亡くなる六年前の嘉永五(一八五二)年には富士山を扱った初の揃物『不二三十六景』を刊行している。さらに、それと同じ頃に成立した画帳の『富士十二景』もある。
 『東海道五拾三次』の刊行は天保四(一八三三)年から五年にかけて。それが大ヒットしたことで、広重は以降、延々と同じ画題を描き続ける。『東海道五拾三次』シリーズは二十数バージョンあるから、枚数でいえば千図以上描いたことになる。
 広重は名所絵をたくさん描いたが、『東海道五拾三次』を出版した天保四年から、『不二三十六景』を出版する嘉永五年までの約二十年間、富士山をメインモチーフとしたシリーズ物は描いていない。
 換言すると、晩年になってから富士シリーズ物を初めて手がけた。そして、二つめの富士シリーズを出版しようとしていた時、突然、西方浄土へ赴いたのである。
 当時の広重は名所絵の第一人者だった。また、メインモチーフである富士山は庶民の信仰の対象だった。広重が富士のシリーズ物を描けば売れたと思われる。しかし、広重は晩年になるまでシリーズ物としては富士山を描けなかった。
 浮世絵は庶民を買い手とする庶民の芸術である。原画を描いた浮世絵師も庶民出身者が多い。そのため、出自のわからない浮世絵師は多い。その代表は写楽である。
 広重は浮世絵師には珍しく出自も経歴もハッキリしている。その理由は三つある。一つは、武家の出身だったこと。二つは、広重が生きたのは幕末で記録に遺りやすかったこと。三つは、筆まめで、日記等の文字を遺したこと。
 したがって、広重に謎は多くない。最大の謎は、「世に出てから晩年までの二十年間、なぜ富士シリーズを描けなかったのか」ということである。逆にいうと「なぜ晩年になってから富士シリーズを描けたのか」ということである。
 本書のメインテーマはその謎を解き明かすことにある。