●はじめに
ジャック・ピエール・ブリソという男がいる。本文にも登場するが、フランス革命の途上で興隆した党派、いわゆる「ジロンド派」の指導者である。
元々の職業をいえば文筆家で、『フランスの愛国者』という新聞を発行していた。議員の席を得られたのも、ジャーナリストとしての高名がものをいったからだが、なるほど、なかなか面白い説を論じている。男性の髪型には革命的なそれと革命的でないそれがある。鬘をかぶらず、髪粉もふらず、自毛のまま、鏝さえ当てない短髪こそ革命的である。うねうねと波打たせ、あるいは額の毛を高く立ち上げ、はたまた中国人の辮髪を真似て編んだものを背中に垂らすような長髪の鬘というのは、貴族的な虚栄と頽廃の徴に他ならない。と、そんなような主張を唱えているのだ。
こだわるブリソの髪型は後の頁で確かめてもらうとして、いわれてみれば日本でも明治維新のときには髪型が一変した。チョンマゲを落とし、皆いっせいに西洋風に改めたのだ。
「ザンギリ頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」
文明開化というが、その西洋化、近代化のプロセスも含めて、あれは一種の革命だった。もしや革命というものは、政治の仕組みや社会の成り立ち、あるいは物の考え方だけでなく、人間のみてくれまで一変させるものかもしれない。いや、一変させてこそ、本物の革命といえるのかもしれない。そう思いついて、フランス革命に戻ると、その前と後ではブリソがいう髪型のみならず、色々なものが確かに別になっていた。
例えば、フランスには「サン・キュロット」という言葉がある。革命当時に、貴族が愛用していた「キュロット(半ズボン)」を「サン(はけない)」ような平民、もっといえば貧しい労働者階級くらいの意味で使われた言葉である。
ある種の蔑称といってもよいが、今にしてみればどうか。ヴェルサイユの宮廷貴族がはいていたようなキュロット、つまりは絹の長靴下で包みながら、ふくらはぎの曲線を誇らしげに露出させているような男性ファッションとなると、はたして頂けたものだろうか。好んで身につけたいとも思わず、つまり革命から後は「サン・キュロット」ならずとも、きちんと長ズボンをはくのが普通になっていったのだ。
王政を廃したというが、フランス革命など最後は擬似王政ともいうべきナポレオン帝政に落ち着くではないか。そんな風に評価を割り引く声もあるが、みてくれという意味では決して後戻りはしていない。ルイ十六世は白い鬘をかぶり、キュロットをはいていたが、ナポレオン一世は黒々した自分の髪を露出させて、長ズボンに長靴なのだ。復古王政のルイ十八世やシャルル十世はさすがに先祖返りを示すとして、続く七月王政のルイ・フィリップ王も、第二帝政のナポレオン三世も、やはり長ズボンを愛用し続けるのだ。
やはり革命は起きた。とはいえ、髪型や服装といったものを一変させるのは、あるいは簡単なのかもしれない。外側だけなら、いくらでも取り替えることができるからだ。ひるがえって、内側はどうだろうか。簡単には取り替えられない部分、例えば顔など、革命の前と革命の後では別になるのかならないのか。
当然ながら、ひとりの人間で大きく変わるわけがない。顔が別になるかという問いかけは、政治の表舞台に出てくる相貌が革命の前と後で変わるのか変わらないのか、あるいは革命の最中においても、ときどきの局面で入れ替わるか入れ替わらないのかと、それくらいの好奇心に発している。さらに論を進めるならば、顔の歴史というものは可能か。抽出された顔、顔、顔から、なにか読み取れるものがあるのか。つぶさに見比べているうちに、新しい解釈が浮かぶのか。
思いつきに背中を押されて、悪戯なかばで探し始めると、フランス革命に足跡を記した人々の肖像画たるや、あること、あること。市民社会の到来というならば、大半は王侯貴族でなし、必ずしもお抱え画家がいたわけでもあるまいに、よくぞこれだけ残されていたものだ。さすが文化大国フランス、さすが芸術の都パリと安直に感心するより、選挙で議員に選ばれなければならなかった革命家たちは、かえって王侯貴族たちより顔を売る必要に迫られていたのかな、写真がない時代であれば肖像画の他に仕方なかったのかなと、のっけから想像力を刺激された。そう、元来が顔というのは、みる者の想像力を刺激するものなのである。
フランス革命の肖像──さて、どんな顔が登場するか。