はじめに
一八八六年、明治十九年の東京に生まれた画家・藤田嗣治は生涯のほぼ半分をフランスで暮らし、晩年にはフランス国籍を取得、カトリックに改宗してその洗礼名からレオナール・フジタを名乗るようになったのち、一九六八年にスイス、チューリッヒの病院で亡くなりました。八十年を越えた長命な人生で、日本とフランスに限らず、世界を股にかけて波乱に満ちた生活を送ったうえに、作風もかなり振幅が大きく、ひとつの像を結びにくい表現者といえるでしょう。
その藤田について、二十一世紀を生きるわれわれが知っておきたいのは、彼が油彩画の本場ヨーロッパに自ら出て行って勝負し、相応の成功を果たし、作品を売って自活できた最初の日本人美術家だったということです。日本人美術家の海外での活躍は、第二次世界大戦後、とくに六〇年代から数を増し、今日では草間彌生や村上隆らのようにもはや日常的ですが、戦前に国際的な名声と市場を得ていた藤田は彼らの先駆者、まさに開拓者でした。彼は国境や国籍を越えて、自らが生きる場所や時代に適応し、日本と日本「以外」の美術、文化の双方に関与し、橋をかけたのです。
その藤田の死から四十年が経過しました。一九二〇年代のパリで確立した独創的な「乳白色の下地」による絵画スタイルと獲得した大きな名声にもかかわらず、没後長らく展覧会や出版数が限られたこともあって、母国日本ですら忘却、もしくは神話化が進み、一時若い世代には遠い存在となりかけていました。また、戦争画への関与や通俗的な人物、作風という先入観もあってか、専門家の間でも本格的な研究対象とすることを忌避する雰囲気が漂っていました。
ところが、二〇〇〇年前後からこの画家を歴史的存在としてとらえ直す伝記研究、出版が活発化し、他方、二〇〇六年には東京国立近代美術館ほかで初めての大規模な回顧展が実現するなど、作品の公開・展示も進みました。今や生前のエピソードや人物評からいったん距離を置いて、冷静に業績=彼が遺した「作品」そのものに向き合う機運が、美術家を含めた若い層の間で進んでいるように思います。
この本では、これまでほとんど知られることがなかった、藤田の「画家」以外の側面をご紹介します。「絵画制作」という仕事の合間を縫って、身のまわりの日用品を手づくりし、パリの蚤の市や旅先で各国の職人仕事を買い集め、自宅を自分好みに、まるで彼の作品のように古今東西を異種混淆しながら装飾していった藤田。その仕事場では、画作だけでなく、染色、裁縫や木工といった手仕事、写真撮影、そして日記や手紙などの書きものが進められ、たいへん濃密な時間が重ねられました。
では、パリ郊外にある藤田晩年の旧宅を訪れ、そこに残る、彼の手づくりの品や遺愛の品をたどることから、この画家の知られざる私的領域「手しごとの家」へとご案内しましょう。