神仏習合
世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」というと、だいたい総称して「熊野古道」と呼ばれることが多いのだが、そこには熊野三山以外にも、奈良県の吉野・大峯、和歌山県の高野山などが含まれている。そして、日本有数の聖地、伊勢神宮と熊野三山とを結ぶ伊勢路が三重県を縦断しているのだから、もちろんその存在についても無視することはできない。世界遺産とされたのは、そうした異なる信仰(神道、仏教、修験道など)が道によってそれぞれ意味深く結ばれている点を評価されてのことなのである。
たしかに「紀伊山地の霊場と参詣道」はいまでも神仏混淆のメッカで、神道、仏教、道教、修験道など、日本人の宗教を構成するあらゆる要素がそこに混在している。吉野一帯にも金峯山寺のみならず水分神社や金峯神社などがあるし、高野山には丹生都比売神社がある。奈良の天河大弁財天社はまさに神仏混淆の地で、当然のように般若心経が読まれている。そこには神仏習合というような意識さえ存在していない。そうなると、それらを理解するのに、単に「神仏混淆」とか「本地垂迹」とかいう出来合いの言葉ですませてよいのかどうか。
日本人の宗教というと、まず「あなたは神道か仏教かどちらを信仰するのか」と問われることが多い。「仏教」と答えておけばまずは無難なのだが、「神道」とでも答えようものなら、「いったい神道とはいかなるものか」という説明を求められることになる。そして、それに適切に答えられる人はほとんどいないわけで、いつしか曖昧なまま話題を変えざるをえなくなる。「神仏習合」とか「神仏混淆」とかいうなら、その前に「神道」とは何かを知らなければならない。ところが、これがなかなか一筋縄ではいかないのである。