混乱し複雑化する諸伝本
「百鬼夜行絵巻」という名称は、近代になって研究者が使い出したものです。しかも同様の絵巻伝本群の「総称」です。近代以前にそのような名称はありませんでした。むしろ、江戸時代には「百鬼夜行図」とか「百鬼夜行」などと題されることが多かったようです。
じつは真珠庵本にも「百鬼夜行図 土佐光信筆 真珠庵」と書かれた小さな短冊形の紙片が巻物に貼られています。絵巻研究者の小松茂美氏によれば、紙片は明治の頃に添付されたらしいとのことですので(「『百鬼夜行絵巻』の謎」『日本絵巻大成』第25巻)、この名称は江戸時代の呼び方にしたがってつけられたのでしょう。
しかし、この絵巻が描かれた室町時代でもそう呼ばれていたのかどうかは定かではありません。
ようするに、今日の百鬼夜行絵巻の伝本群がそう呼ばれているのは、研究者もしくは絵巻に明るい古書業者が、絵巻の内容を見て、これは「百鬼夜行絵巻」と名づけてよいだろうと判断した結果なのです。先述の日文研が所蔵する「百鬼夜行絵巻」も、そうした習慣にしたがって名づけたのですが、古風に「百鬼夜行図」としてもよかったのです。
このようにネーミングの基準はまことにあいまいなのです。ある人は真珠庵本の図柄(器物の妖怪)が描かれているかどうかで判断します。別の人は妖怪めいた異形の者たちが群行している内容であれば、真珠庵本の図柄がなくとも、百鬼夜行絵巻と名づけます。そのなかには、とても群行している様子を描いたとは思えないような化物尽し絵巻のたぐいでも、百鬼夜行絵巻という題がついているものがあります。
こうなると、百鬼夜行絵巻という名称を見ただけでは、そこに何が描かれているのか予想がつけにくくなります。その多くは確かに真珠庵本の影響を受けた図柄の絵巻なのですが、予想がはずれることもあります。しかも、予想がはずれた絵巻のなかに独創性に富んだものがあり、百鬼夜行絵巻の歴史のみならず、さらに広く妖怪絵巻史・妖怪絵画史に特記されるような作品が含まれていることもあるのです。
このように、百鬼夜行絵巻諸伝本は混乱し複雑化しています。そのため整理もいまだ十分になされていません。妖怪絵巻はもちろんのこと、百鬼夜行絵巻と総称される絵巻群の全貌さえ把握されていないのが現状なのです。
そこで、私は、できる限り多くの伝本の画像を収集し、それに基づいた分類に挑戦してみることにしました。この分類作業の過程で、これまで謎とされてきた百鬼夜行絵巻の成立や系統も解き明かせるのではないか、という気がしたからです。
「百鬼ノ図」との衝撃的な出会い
このような思いに至ったきっかけは、日文研が所蔵する百鬼夜行絵巻の一種「百鬼ノ図」(以下「日文研本」)の発見でした。この絵巻に出会ったとき、体に電撃が走りました。研究者というものは、その研究人生で一度や二度は、「これだ!」と叫びたくなるような決定的な資料や出来事に出会うことがあるといいます。私にとって日文研本はまさにそれでした。
たくさんの百鬼夜行絵巻を目にしながら、ぼんやりと感じていた整理のつかない諸々の疑問が、この絵巻によって一挙に氷解する! そう思えたのです。
その理由は、本書のなかで追い追い明らかにしますが、ひとことでいえば、真珠庵本を中心に語られてきた百鬼夜行絵巻の成立をめぐる従来の議論を反転させることができる、つまり、真珠庵本を中心から周辺に、逆に周辺に位置づけられていた絵巻を中心に押し上げることができるのではないか、という閃きでした。