『イタリア紀行』出発の動機
 ゲーテが何故ワイマール公国の重要閣僚という地位にありながら突然イタリアへ出発したのか、理由はいろいろ考えられるが、要約すると左記の三つになる。

一 シュタイン夫人との肉体を伴わない愛が行き詰まったこと
 若い時代のゲーテは精力の強い人間で、カール・アウグスト公に招かれてワイマールに来たころは、同年輩である公と連れ立って女性をかどわかしたり、荒々しい放蕩生活を送っていた。その後宮廷馬頭の妻、シュタイン夫人に会ってから宮廷人としてのマナーなどを教えられ、調和の取れた人格を徐々に身につけてゆく。これは文学でいえばゲーテのシュトルム・ウント・ドランクから古典主義への移行時期にあたる。
 ゲーテは女性好きだったことが知られ、それはゲーテが自分の家族について書いた詩からわかる。

  父からぼくは体格と
  まじめな人生の生き方を受けついだ。
  母ちゃまからは快活な資質と
  お話をつくるたのしみを。
  むかしのおじいさんはどうやら美人がお好きだった、
  それがぼくにもちょくちょく出るのだ。(略)
  (「父からぼくは体格と」小塩節訳・小塩節著『私のゲーテ』青娥書房刊、二〇〇二年より)

 ゲーテはこの祖父の血を受け継ぎ、女性を愛し、そして愛した女性と別れる度に美しい詩を創作した。ストラスブールで恋したフリーディケ・ブリオンとの恋では名作『野ばら』『五月の歌』、マリアンネ・ヴィレマーとの恋では『西東詩集』が生まれ、シュタイン夫人との恋では『イフィゲニー』『シュタイン夫人に』、七十二歳で十七歳の少女ウルリケ・フォン・レボッツォーに恋し、失恋し、『情熱』三部作を書いた。
 ゲーテはワイマールでシュタイン夫人に会い、たくさんの詩や手紙を彼女に捧げた。その中のある詩では、夫人を「ああ、前世で君は私の姉、妻である」とまで言っている。ゲーテはシュタイン夫人に恋し、生涯に千七百通をこえる手紙を彼女に送っている。この『イタリア紀行』も彼女へ送った手紙がベースになっている。しかしシュタイン夫人は、生涯に七人の子供を生み、ゲーテと肉体関係になることをきっぱりと拒否した。それは狭いワイマールで生きてゆくには、最も賢明な選択だった。自身にもゲーテにも。
 彼女との交際をこれ以上続けても両方が満たされることはないと悟ったゲーテは、イタリアへ行くことを決意した。イタリアへの旅立ちはシュタイン夫人との惜別でもあった。

二 詩が書けなくなったこと
 ゲーテは本来自分を詩人と思っていた。しかしワイマールに来てから政務に忙殺され、自分の納得のゆく詩が書けなくなった。唯一の例外はイタリアへの憧れを書いた詩『ミニヨン』だけだった。このままでは詩人として終わりになると危機感をいだいたゲーテは、詩才と魂の再生のためにイタリアへ旅立つことを決意した。

三 政治家として限界を感じたこと
 政治家として、鉱山の開発、道路の建設、土木工事などを指揮し、計画の立案などをしていたが、偏狭な土地ワイマールではゲーテの思ったような成果は上がらずストレスがたまり、ゲーテは政治家としての自分に限界を感じた。

 イタリアへの出発
 一七八六年の夏、ゲーテはアウグスト公、シュタイン夫人らワイマールの宮廷の人たちと一緒にカールスバートでヴァカンスを楽しんでいた。そしてこれらの人々のあいだにゲーテが突然姿をくらますのではないかという噂うわさが流れていた。しかし、ゲーテは几帳面で目的を決めたら用意周到に準備する性格である。まずゲーテは自分が就いていた職務に支障をきたさないように準備をし、自分が不在でも何も問題が起こらないように手を打ち、その後旅行に出発してから、アウグスト公に期間未定の有給休暇を申し出たのである。
 ゲーテは信頼のおける秘書のザイデルだけにイタリアへ行くことを知らせていた。というのは旅行中も彼から必要な金を送金してもらうことになっていたからだ。ゲーテの最大の関心事は、どうしたらイタリア旅行中も帰国後もこれまでの約一千万円相当の年収をもらい続けることができるかだった。ゲーテの給料はワイマール宮廷ではいちばん高く、厚遇されていたため、この旅行がアウグスト公の逆鱗に触れて、解雇になることを恐れていたのだ。
 当時ゲーテはドイツ国内で最も有名な作家だったが、文筆だけで生計を立てることは不可能だった。しかしゲーテと親交のあった英国の作家ウォルター・スコットの収入は莫大なもので、ゲーテが生涯に稼いだ収入をスコットは三年間で得たともいわれている。また、ゲーテの年収をスコットは三か月の夏のヴァカンスで使ったという話も伝わっている。
 同じ作家でありながらどうしてこんなに収入の格差がついたかというと、ゲーテの書いた小説、詩などを本として読むのは、身内やせいぜい友人などの少数で、発行部数も数百から千部程度だったからだ。それに対してスコットは、常に一万人以上の読者を対象に小説や詩を書いたという。英国には文学を楽しむ層がドイツの十倍以上いたともいえる。それだけ十八世紀のドイツと英国では、識字率において差があったのだ。
 カール・アウグスト公がゲーテに求めたのは、政務を遂行する行政官としてのゲーテで、詩人としてのゲーテではなかった。ゲーテが政務に忙殺され、詩の創作ができないで悩んでいるなどとは考えてもいなかった。ゲーテは自分のイタリアへの旅行がどうしたらアウグスト公やその周辺の人々に抵抗なく受け入れられるか日夜考え、周到な準備をして遂行した。
 戻ってからはそれまでの何でも屋的な仕事でなく、自分の得意な文化面の行政のみを行い、詩や小説などの創作活動ができるように画策した。ゲーテは旅の期間を徐々に延長し、一七八八年の復活祭まで滞在することを許された。それがこのイタリア旅行であり、ゲーテの打った人生最大の博打だった。そしてゲーテは見事にこの賭けに勝ったのである。『イタリア紀行』の冒頭の部分を読んでいると、ゲーテは唐突に旅行したように書かれているが、実はこの旅行はゲーテの冷静な計算の上に企てられた行為だった。