はじめに

 江戸時代の浮世絵師、広重の最後の大作に『名所江戸百景』がある。 略して『江戸百』。
 この作品は、鷲や亀、猫といった動物の図像が印象に残る大きさで描かれていたり、ゴッホがそのなかの 梅の名木や夕立の新大橋を模写したり、平成十六年(二〇〇四)には、彫りと摺りの技を継承するプロジェクト としての復刻事業が完成したりと話題に事欠かない。
 『江戸百』はこれまで「四季に彩られた江戸の名所」を描いたと解説されてきた。今日の写真絵葉書同様、 メッセージ性はないとみなされてきたのである。しかし、単なる名所絵というには、どこか謎をたたえた魅力が ある。その理由は何なのだろう。この連作には年月の入った出版許可印が捺されている。その年月は、何かの 手がかりにはならないのか。このシリーズで最初に捺された許可印の年月は、安政三年(一八五六)二月で、 最後が、広重の死んだ安政五年九月の翌月の十月である。この時期に何が起きたのか。その時代に分け 入れば、何かが見えてくるのではないか。
 こうして安政という時代に遡って、謎解きの旅が始まることになった。

 改印とは
『江戸百』に描かれている図像の謎を解くのに、江戸時代の出版検閲制度もみておく必要がある。寛政の 改革以降、本だけでなく浮世絵を出版するにも許可が必要だった。検閲とは本や絵の内容を事前に改める ことだが、一枚摺りでそれが始まるのは寛政二年(一七九〇)である。『江戸百』が出版されていた当時の 浮世絵の場合を例にとると、版元、すなわち今でいう出版社は、出版しようとする絵の下絵(版下絵という)を、 町名主の絵双紙改掛に提出する。版下絵は墨で輪郭だけを描いたものだが、改掛が吟味して、出版しても よいということになると、その証明として、提出された下絵に許可印が捺される。これが改印である。改印は 時期によって形式が異なり、当初は「極」の円印ひとつだった。時代が下り嘉永六年(一八五三)から安政 四年(一八五七)にかけては、「改」の印と年月印の二つが捺されている。それを見れば、この時期の浮世絵 は何年何月に許可されたかがくわしくわかるのである。江戸時代、年は十二支で表記されていた。たとえば、 安政三年は辰年と表記される。したがって、安政三年の二月に許可された場合には、「辰二」という印が 捺されることになる。

 仮説の発想
『江戸百』は、謎めいていると巻頭に書いた。単なる名所絵なのか、それとも何かの謎が実際に秘められて いるのか。その探究のきっかけを与えてくれた一枚の絵をとりあげて、広重の発想のプロセスをたどることに したい。その絵とは「浅草金龍山」である。この絵は、「目録」で冬に分類されているので、浅草寺(現、台東区 浅草二丁目)という名所の雪景色を描いた絵であると解説されるのが一般的である。ただ、アメリカで日本の 歴史と文化を研究しているヘンリー・スミスだけは、その著『広重 名所江戸百景』において、雷門の紅と雪の 白の対照的な色使いが、おめでたさを感じさせると指摘している。それでは、絵はなんらかのメッセージを 発しているのか。
 では、この絵の改印はいつなのか。「辰七」とある。これは、先に述べたように、出版許可を得たのが、安政 三年(一八五六)七月であることを示している。江戸時代の暦は陰暦だから、七月は秋のはじめである。ちなみに、 一、二、三月が春、四、五、六月が夏、七、八、九月が 秋、十、十一、十二月が冬ということになる。太陽暦を 採用している今日でも、八月上旬の立秋を過ぎても残暑が続く。となると、暑い最中の七月に雪景色とは、 いかにも不自然に思えてくる。広重は、なぜこの場所を雪景色に仕立てたのか。これが大きな疑問になってきた。
 江戸時代の歴史を手っ取り早く知る上で恰好な書物がある。江戸の町名主で神田雉子町(現、千代田区 神田司町二丁目)に住み、『江戸名所図会』や『東都歳事記』を編纂した斎藤月岑がまとめた『武江年表』で ある。その安政三年の項に、ある一文をみつけた。五月に「浅草寺五層塔婆の九輪、地震の時傾きたるを 修理す」とあった。ちなみに「五層塔婆」とは五重塔のことで、「九輪」とは塔の上部に並ぶ九つの輪のことで ある。「浅草金龍山」の絵を再び見てみると、五重塔が遠景に描かれているではないか、しかも九輪は まっすぐだ。
 それで、ひとつの仮説を発想した。つまり、九輪の修理というできごとが、絵の制作のきっかけになっている のではないか。もしそうだとするならば、この時代のことをくわしく調べていけば、できごとと、絵の制作の間に 対応する関係がみえてくるのではないかと。
『武江年表』には、もうひとつ大事なことが含まれている。「地震の時」というひと言である。『江戸百』の連作が 始まったのは安政三年だが、その前の年の安政二年に、江戸は大地震に襲われていたのだ。この歴史の 事実に、浮世絵の研究者は誰も注目してこなかった。では、その安政江戸地震とはどんな地震であったか。