— 与次郎
 青年は突然、わたしの前に姿を現した。
 積み上げられたサイン本の山の間に迷彩柄のダウンジャケットが覗き、「え、まだ時間では……」と見上げたわたしの目と、わたしを見つめる彼の目とがぴたりと合った。日に焼けた肌と、若者特有のきれいな輪郭、そして、はにかんだような戸惑ったようなやわらかい奥二重の目。一瞬、わたしは息をのみ、思わずあの子の名前を口走りそうになった。―ただ、次の瞬間、別人であるとわかったけれども―、わたしと青年は双方まったく別の思いを持って、しばし目と目を見つめあったのだった。
 それはずいぶん長い間のように思われたが、じっさいにはほんの数秒だったかもしれない。青年はすらりとした長身の背中をほとんど直角に折り曲げ、ていねいすぎるお辞儀をすると、結んでいた唇をおもむろにゆるめ、言葉を発した。
「突然すみません、大学生の西山直広といいます。先生のファンです。ぶしつけとは思ったのですが、どうしてもお目にかかりたくて押しかけてきました」
 しばたたく瞳の奥に思い詰めたものがあふれていた。そして、やや顔を赤らめ、いったん息を吸い込むと吐き出し、言葉を継いだ。
「これ、読んでください」
 やや突き出すように、それでも両手をきちんと揃えて机の上に置いたのは、定型の茶封筒だった。青年はまたわたしの目を見つめ、「真剣なんです。お願いします」と言ったなり踵を返して去っていった。
 ときならぬつむじ風に当てられたようだった。
 一瞬遅れて小太りの書店員が駆けつけ、頰を赤くふくらませてまくしたてた。
「大丈夫でしたか、先生。すみません、呼び止める間もなかったもんですから―。しかし気をつけないといけませんね。近ごろの若いヤツにはけっこう危ないのがいますから。何をするかわからないんだ、マッタク」
 書店員の言葉をぼんやりと聞きながら、わたしは〝遠い接近〟とでもいうような奇妙な感覚に襲われていた。
「さあ、みなさん、並んでください。カン先生のサイン会を始めますよ、いいですかぁー」
 書店員の裏返った声がフロアのざわめきを払うように響きわたった。



 書店でのサイン会が二時間ほどで終わると、短い師走の日はすでにとっぷりと暮れていた。
「お疲れ様でした。今日は強引にお願いしてすみませんでした」
 編集者の笑顔にはわたしへの気遣いがあふれていた。
「いや、楽しかったよ。こうして—人ひとりと握手すると、読んでくれている人たちの素顔がわかって、本を出して本当によかったって気になるよね。そんなことってテレビなんかでは得られないしね」
 コートの袖に腕を通しながら往来を見やると、いつしか霧雨が降りはじめていた。うるんだ夜気の中に色とりどりのイルミネーションがぼうっと霞んでいる。額に手をかざした人びとが足早に通り過ぎていく。
「タクシーを用意しますから、ご自宅までどうぞ」
 編集者はしきりにタクシーを勧めたが、わたしは辞して屋外に踏み出した。無性に歩きたかったのだ。サイン会のあとは決まって心身の緊張が抜け、人恋しさと孤独感がないまぜになったような気持ちになる。
 小雨に煙る往来を歩くうちに、コートの表面に夥しい数の雨粒がついていた。信号待ちの間、銀色に光るその水玉を見ていたら、さっきの青年の顔が思い浮かんだ。胸を締めつけられるように懐かしい、あの瞳。目を閉じて青年の顔を思い起こすと、それはいつの間にかもう一人の若者の顔と重なり、その思い詰めた眼差しは、「アボジ……」と語りかけているようだった。わたしは頭を振りながら、しばし立ちすくんだ。
「そうだ、手紙のようなものを置いていったな」
 かばん、コートのポケット、ズボンのポケット……、やがて指の腹が上着の内ポケットにカサカサとした封筒の感触を探り当てた。
 ふたたび時が動き出す。
 わたしは道路脇に見つけたカフェに入り、腰を下ろすと、注文もそこそこに取り出した。急いでねじこんだせいだろう、もみくちゃになった便箋のようなものが封をしていない口から覗いている。広げると、やや右肩上がりの、あまり上手でない、しかし一字一字ていねいに書かれた文字が現れた。わたしは眼鏡をはずし、裸眼で行を追いはじめた。



姜尚中先生。

 はじめまして。僕、西山直広といいます。埼玉県の上尾市にあるS学院大学の二年生です。先生のいらっしゃるT大みたいな名門ではありませんけれど、ご存じですか? 先生も昔、上尾に住んでおられたと聞きました。ミッション系のこぢんまりとした大学です。
 突然こんな手紙をさしあげたのは、苦しくてしようがないからです。誰かに聞いてほしかったのです。先生のご本を読んで、きっと僕の気持ちをわかってくださる人だろうと思いました。勝手にそう思い込んだんですが、ご迷惑だったら、本当にすみません。でも他に相談する人もいないし、言ってもわかってもらえそうにないし、迷った挙げ句、どうせだったら理想の人に聞いてもらおうって、ダメもとで先生にアタックしてみることにしたのです。
 先生、二週間前に親友が死んだのです。
 与次郎というやつです。
 白血病でした。見つかるのが遅かったのと、若いから進行が早いのとで、あっという間に死んでしまいました。小学校からずっと一緒で、大学まで同じでした。家族も同然のやつでした。兄弟みたいでした。一緒に頑張ろうなって就活始めたところだったのに、こんなことって、ありでしょうか。悲しくて、悲しくて、どうしていいかわかりません。