青春と読書「対談」
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コンプレックスは創造に必要なもの。私はいまだ話し下手のままです。
インタビュー 吉田照美
『「コミュ障」だった僕が学んだ話し方』(集英社新書)  

『「コミュ障」だった僕が学んだ話し方』
吉田照美 著

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吉田照美さんの新刊『「コミュ障」だった僕が学んだ話し方』(集英社新書)は、若い頃、「コミュニケーション障害」だったと語る吉田さんが編み出した、コミュ障ならではの会話術を明かした一冊です。刊行にあたって、吉田さんにお話を伺いました。
聞き手・構成=高篠友一/撮影=高橋定敬

─本書の中で明かされていますが、ラジオやテレビでご活躍する吉田照美さんが、過去に「コミュニケーション障害」だったとは本当に驚きました。

吉田 小学校時代はわりと勉強ができたほうですし、背も高くて陽気な性格だったんですよ。小5のときには学級委員に選ばれたりして。けど、中学校に入学すると、当然ながら環境がガラリと変わるじゃないですか。私は第一次ベビーブーマーの最後だったので、1学年に10クラスあって、生徒数も学年だけで約500人。小学生の頃は勉強に自信があったのに、中学の成績は100から150番目をウロウロする程度。特に運動神経がいいわけでもなかったので、段々と取り柄がなくなってしまったんですよね。自信が持てなくなったことで、性格は暗くなり、コンプレックスも抱くようになった。それを決定づけたのは、クラスメイトの女の子に片思いをしてから。というのも、その子は別の同級生に思いを寄せていたのですが、彼は勉強ができて運動神経がよく、尚かつイケメンという、まさに非の打ち所のない好青年。そんな彼と比較するうちに、「自分はなんてダメなヤツなんだ」と思い込むようになってしまいました。
 さらに高校受験でも、その女の子は進学校に進み、私は中程度の公立高校。私が抱くコンプレックスは、ますます強くなっていきました。

─失意の吉田少年は、どんな高校生活を送ったのでしょうか?

吉田 難関大学に入学すれば、「その子に振り返ってもらえるかも」と思い、友達もあまり作らず、ずっと勉強に打ち込んでいました。ここを早く脱出して、大学で夢のようなキャンパスライフを送ろうと夢見ていたのですが……大学受験に失敗。やむなく浪人生活に入ることになってしまったのです。学生でも社会人でもないという、浪人生の曖昧な立ち位置は本当に辛かったですね。アイデンティティを見失い、余計にコミュニケーション障害が悪化してしまった。誰とも会いたくないし、勉強中に幻聴が聞こえるほどになったんです。軽いノイローゼ状態だったのでしょう。

─大学に合格した後、アナウンス研究会に入ったんですよね。症状は良くなっていたのでしょうか。

吉田 いえ、そういうわけではないし、別にアナウンサーを目指していたわけでもなかったんです。アナ研に入った理由は本当に単純で、「普通にしゃべることができるようになりたい」と思ったから。当時は金融系の企業に勤めようと考えていたのですが、浪人生時代にほとんど人と会話していなかったので、このまま社会人になってもきっと使い物にならない。最低限、人前でちゃんと話すことができるようになろうと思ったんです。

─まさに、それが吉田さんの人生のターニングポイントだったんですね。アナウンス研究会に入ったことで、何が変わりました?

吉田 すぐに大きな変化があったというわけではありませんでした。アナ研に入れば、発声法や早口言葉、ニュース原稿の読み方などを学べるわけですから、劇的にしゃべりがうまくなると思ったんですよ。けど、やっぱり漫然とやっていてもダメなわけで。努力しなければうまくならないと気付くまでに、かなり時間がかかりました。
 最初に挫折したのは、大学1年生のときに参加した夏合宿。アナ研主催のアナウンスコンテストがあって、原稿読みは何とかこなせたのですが、持ち時間2、3分のフリートークで大失敗をしてしまった。絶句したまま、何もしゃべれなかったんです。そのときの様子はオープンリールテープで今も保存されていると思うのですが、焼いてしまいたいくらいトラウマになっていますよ(笑)。そんな屈辱をもう二度と味わいたくないと思い、4年生の先輩に相談したところ、アナウンスアカデミーを紹介してくれたのです。

─アナウンス研究会のほかに、専門学校にも通い始めたというわけなんですね。

吉田 そうなんです。そこでもアナウンスメントの基礎トレーニングを学んだのですが、一番糧になったのは自己紹介。何度も自己紹介をさせられるうちに、自分は何者なのかというのを客観的にも分析するようになった。自分の特徴、外見、声の質、自分の関心領域がどこにあるのかなど、わかっていそうでわかっていないことが多いんですよ。ほかにも、自己紹介ではつかみネタも大事になるので、常日頃からいろいろなことにアンテナを張るようになりました。その頃からですね、話し上手な人がどんな風にしゃべっているのか気になり始めたのは。

─吉田さんにとって、誰が〝話し上手な人〟だったのでしょう?

吉田 当時、NHKの鈴木健二アナウンサーが時代の寵児でね。『NHK紅白歌合戦』の司会を務めたりして、とにかく大きな番組を仕切る能力がスゴかったんです。私には到底マネできそうにないですし、自分のキャラクターと照らし合わせると少し違うかなと。そんな中、ラジオの深夜放送を聞くようになって、TBS(当時)の小島一慶アナウンサーがDJ を務める『パックインミュージック』に出会ったんです。これがとにかく面白かった。小島アナが1週間にあった出来事を毎回話すのですが、時に感動させるし、時に腹を抱えて笑わせてくれる。ある時は、リスナーが不治の病にかかり、闘病中にしたためていた日記を朗読してね。聞いていた私も涙が止まりませんでした。小島アナのしゃべり方は、まるで落語家のようで、NHKでもないし、民放のアナウンサーらしくもない。アナウンサーでも、こんなふうに話していいんだって感動してからは、小島アナのしゃべり方を研究して、マネするようになりましたね。

─アナウンサーを本格的に目指すようになったのは、いつからですか?

吉田 就職活動を始めた当初は、もともとの志望どおり金融系の企業に就職しようと思っていたんです。声も滑舌も目立つほどいいわけではなく、放送局を受けても採用される自信がなかったんですよね。ただ、人生は何がキッカケになるかわからないもので、それはある銀行の就職説明会を受けようと、東京駅のトイレに立ち寄ったときのことでした。なんと、偶然そこに大好きな作家の遠藤周作さんがいたのです。トイレの外で声をかけようと待ち構えていたものの、一向に出てくる気配がない。おそらく、私がよそ見している間に出て行ってしまったのでしょう。結局、その説明会の開催時刻が過ぎてしまい、そのまま家に帰ることに。自分でもなぜだかわかりませんが、この一件以来、金融系を受ける気が起きなくなってしまい、放送局の採用試験に本腰を入れるようになったんです。

─深夜のラジオ放送を担当したいという願いどおり、就職試験では文化放送に合格しました。

吉田 文化放送とニッポン放送の最終試験まで残ったのですが、今思うと、当時の私のしゃべりでよく文化放送は取ってくれたなぁと思います。どちらも最終試験に残っていた学生は知り合いばかりで、みんな話術のスキルは私よりも上でした。本当に運がよかったとしか言いようがありません。

─アナウンサーになって影響を受けた人物はいらっしゃいますか?

吉田 それはもう、何人もいますよ。久米宏さんは語り口が二枚目で、とにかく洗練されている。ある意味、私も〝久米病〟にかかっていた時期があって、自分の担当番組でそれっぽいフレーズをマネして入れたりしていたんですが、私にはとても難しく、長続きはしませんでしたね。
 天才として秀でていたのは、文化放送の先輩だったみのもんたさん。普段の姿と放送時のしゃべり方がまったく一緒で、どこまで考えて言葉を発しているのかがわからないんです。天才としか言いようがなかったですね。そんなみのさんの流れを汲んでいたのが、私の1年先輩だった梶原しげるさん。みのさんのラジオ番組を熱心に聞いていて、文字にも起こしていたほどです。私が局で生き残るためには、ふたりとは違ったしゃべり手にならないといけなかった。その点、私は小島一慶さんのようなスタイルがしっくりきていたので、うまく差別化ができたような気がします。

─吉田さんは本書で、「話し上手ではなく、話し下手を目指そう」と提言しています。

吉田 上手に話そうという気持ちは大切だけど、今ある自分はすぐに変えられません。私も自分の資質に鑑みたときに、久米さんにもみのさんにもなれないわけで、だったら今の自分をどう活かしていくかを考えるほうが大切だと思うんですよね。コンプレックスもそのひとつで、とらえ方次第では、それをネタにして笑いを取ることもできる。「創造」という漢字の「創」には、キズという意味もあります。キズやコンプレックスは、クリエイト─創造─する上で大事な要素であり、必要なものなのではないでしょうか。
 私はいまだに話し下手のまま。でも、自分のことを理解し、コンプレックスも個性のひとつだと思うようになってからは、いろんなことが受け入れられるようになった。だからこそ、今の自分があるのだと思います。

青春と読書「本を読む」
2018年「青春と読書」1月号より

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