青春と読書「エッセイ」
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『奇食珍食 糞便録』 椎名 誠 著
地球は回転する糞玉 椎名 誠  

『奇食珍食 糞便録』
椎名 誠 著

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 いろんな国を旅していると変わった食い物に出会う。たとえば北極圏のアラスカ、カナダ、ロシアにいくとネィティブのイヌイット(エスキモー、ユピックなどともいう)の主食はどこもアザラシだった。生食である。
 もう氷のイグルーに暮らしているイヌイットはおらず、ツーバイフォーの暖房つきの家なんかに暮らしているが、食事は居間の真ん中にダンボールを広げて、アルジが捕ってきたアザラシをドデンと横たえ、それぞれがナイフや女性用のウルという独特の刃物食器(とでもいいたい)を手に好きなところを切り取って食う。
 種類にもよるが、アザラシの肉はけっこううまい。醤油があればじゃんじゃんイケル。土地によっては腸の中までススル。ぼくもちょっとススッたがシオカラのかんじだった。
 臓物と肉をぜんぶ抜いたアザラシやセイウチの腹の中に海ツバメ(近年、正しくは「ウミスズメ」とされているらしいが、現地ではこう呼んでいた)を数百羽と詰め込んで永久凍土の中に半年いれてゆっくり発酵させるキビヤックは海ツバメの納豆と思えばいい。ツバメを両手でぐじゃぐじゃにもんで骨ごと中身を柔らかくする。それから尻の穴を刃物の先でつついてそこからススル。これもうまい。何羽もススルのでみんな口のまわりをヌルヌルにして「ママット、ママット」(うまい、うまい)といって笑い食いする。
 奥アマゾンのポカ村ではサル(吠えザル)の肉とジャガイモを煮たのがある夜の食事だった。サルジャガである。キャッサバのすりおろしをふりかけて食べる。
 ワイカ族は生きたでっかいアリを熱い湯の中にサッとくぐらせて食う。アリしゃぶだ。蟻酸が強くて慣れないと刺激だらけ。
 パラグアイのネィティブは若いワニやアルマジロを食べている。ワニは若いと背の皮も柔らかく、最初にブッシュナイフで背中をまっすぐ切り裂く。本場のワニ料理は「背びらき」なんだなあ、と感心して見ていた。
 オーストラリアのアボリジニは一メートルはある砂トカゲの蒸し焼きがメーンディッシュだった。鶏のササミみたいでこれもけっこうイケル。
 世界の人々はこんなふうにいろんなものを食っている。奇食珍食というわけではなくスーパーもコンビニもないから、自然環境に順応して、つまりそれしか手に入らないから食っているのだ。実際に世界にはそういう人のほうが多いのではないかと思う。
 彼らから見たら日本の料亭の「白子和え」とか「鮑の躍り食い」(生きてるのをじか焼きする)なんていうほうがよほど奇食に思えるだろう。
「おにぎり」を見て卒倒しそうになった民族を見たことがある。そういうコトをこの本に書いた。人間の奇食、珍食なんて相対的なものなのだ、ということをこの三十年ぐらいの世界各地の辺境の旅で知った。

 旅で重要なのは「何を食うか、食えるか」ということとそれを「どこでいかに快適に出せるか」ということに尽きる、と思っている。
 ぼくは中国でそうとう鍛えられた。中国の公衆便所は「公厠」と書くが、地方中小都市ではいまだに世界でも珍しい「開放便所」がある。ニイハオ(こんにちは)トイレともいう。要するにドアがないので、丸見え状態で糞をする。
 むかいあわせになった人と「コンニチハ。どうすか、今日の出ぐあいは?」なんて軽快に挨拶しながらヤルのだ。どういうわけかたいてい掃除があまりなされていないので鼻が七曲りになるくらい臭い。
 田舎にいくと便槽ではない、要するにフロアにしちゃっている人がけっこう多いので、夜など懐中電灯なしのサンダル履きなんかで入ったらそのあと生きていくのが嫌になる。
 タクラマカン砂漠の探検隊に加わったとき途中オアシスの小さな村に二泊した。便所が男女一つずつしかないので、朝など緊迫した行列の先頭にむかって一人しゃがんでやらねばならない。もちろんドアなしだ。行列の「早く出しちまえ!」の容赦ない集団圧力波がすごい。あれを体験したらもう世界に怖いものはないと実感した。だからオアシスを出て砂漠でひとりやるときの解放感といったらなかった。中国の辺境にいくと「公厠」の壁に「野便逮捕。罰金二十元」などと大きな赤文字で書いてある。その下はたいてい野糞だらけだ。中国の地方空港の便所にやっとドアがつくようになったが、そのドアにはカギがない。つまり用便中にいきなりあけられる。中国人にカギなしのドアの意味を聞いたら「中に先客がいるかいないか確かめるためにカギつけないドアにしているね」と説明された。
 いまだに解けないナゾのドアだ。
 解体前のソ連の便所もすさまじかった。ロシアのパリと呼ばれる街なみの美しいイルクーツクの一流レストランのトイレは地下にあった。
 ちゃんとドアつきだった。しかしあけてみると中は糞の山だった。便器の水洗が壊れてテンコ盛りになっているのにその上にじゃんじゃんしているようで、便器のまわりもあふれた糞だらけ。いまは使っていない個室なのかと思って隣をあけたら同じ状態だった。床も糞だらけ。前人のひりだした糞の上にやらねばならないのだ。これは例外ではなくだいたいどこも同じだった。
 外の公衆便所になるともっと凄い。しかし気温マイナス四十度ぐらいの極寒の時期だったからどの糞も凍結し、臭気がまるでないのが救いで寒いけれどかえって公衆便所のほうが快適だった。二カ月ほど滞在したから帰るときは気温もあがっていたが、そのときフと考えた。このロシアにも春がくる。リンゴの花咲き、川面に霞たつ春がくる。
 あの凍結公衆便所の凍結糞も確実に溶けていくのだ。徹底的に掃除しないとまず使えない状態になるだろう。しかし想像するだに、なまじっかな清掃では使えるようにはならないだろう。とぼくは思った。
 あれらはいったん便所全体を爆破したほうがハナシは早いのじゃないか。そうして瓦礫を埋め、その上にあたらしく便所を建てる。そのほうがロシアの春はしあわせそうだ。
 いま、世界には明日、自分がどこで大便ができるかはっきりしていない人々が少なくみつもっても(なかなか統計はない)二十億から三十億人はいるらしい。それだけ自分の居場所に特定の便所がない人々がいる、ということである。それらの人々がどこでどうやって排泄しているか、体験上、ぼくはだいたい知るところとなった。かなりの量が自然世界にはなたれ、人間以外のかなりの生物がそれを始末しているケースがあり、それらも体験したとおり書いた。
 ヒトは一日に平均二〇〇グラムの大便をするという。それに世界人口を掛けると世界の朝の大便のだいたいの量なり重さがわかる。それが人類の歴史と同時に毎日くりかえされている。そして突如的発言だが、いま、世界で一番安全で清潔で、そのことに無自覚に糞をしているのは日本人である。いいのかそうでないのかぼくにはわからないが……。

青春と読書「本を読む」
2015年「青春と読書」9月号より

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