青春と読書「今月のエッセイ」
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『体を使って心をおさめる 修験道入門』田中利典
山嫌いの山伏による、山修行のすすめ。 田中利典

『体を使って心をおさめる 修験道入門』田中利典

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 私の人生初の山登りは、大峯山山上ヶ岳への参拝だった。まだ五歳だったので記憶はおぼろげだが、山伏だった父と二人ではなく、何人もの大人の行者たちに交じってのことだったので、ついていくのにもう必死で、とんでもなくキツかった憶えがある。
 実は、この山登りにはそれなりに理由があった。それを私は、二十歳を過ぎた頃、母からはじめて知らされた。
 私は一歳半のときに肺炎を患い、死にかけた。医者が「これはもうだめだ」と匙を投げたとき、母は、「自分の子どもも救えなくて何が祈祷師だ!」と、父をなじったそうだ。長年、山修行を続けていた山伏の父は、当初、国鉄職員として働きながら、師僧のもとで祈祷師でもあるという二足のわらじをはいていたが、私が生まれた頃には祈祷師専職となっていた。母の言葉に、父は、一つの願をかけた。「この子が五歳まで生きたら、必ず山上に連れて行きます。ですからどうぞ命をお助けください」と、祈ったのだ。
 つまり、私が経験した過酷な登山は、お礼参りであり権現様や役行者様との大事な約束を果たす道のりだったというわけだ。このことで神仏とのなにがしかのご縁が生じた。なぜなら、このご縁から、私なりに一生懸命、修験道に励み、自らの経験に基づき修験道の良さ、意義を広く知らしめようとする人生を歩んでいるのだから。
 最初から「仏道を歩もう」とか「修験道を進もう」と、決意を固めていたわけではなかったが、私は、自然な流れに乗るかのように比叡山高校、龍谷大学、叡山学院と、正統的な僧侶養成のコースを歩んだ。また、高校卒業の頃には、自宅が信者さんたちの支援で父の新寺となり、父は師僧亡き後を預かっていた教会を辞めて自坊の住職となった。私は、父と信者さんの関わりを間近にし、学校で習う近代化された学問体系の中での仏教学と、葬祭儀礼が中心のお寺の現状との遊離に疑問を持ちながら、宗教・信仰の役割というものを深く考えるにいたった。仏教も修験道も知った上で、一般庶民の暮らしに直に関わる宗教の意義を痛感したのだ。
『修験道入門』 を書いたのは、 より多くの方々に、 日本人の宗教・信仰の基層に関わる修験道のことを知ってほしいからだ。これまでにも『修験道っておもしろい!』『吉野薫風抄  ――修験道に想う』(白馬社刊)といった単著はあるが、新著『修験道入門』では、とくに修験道の「優婆塞(在家)の宗教」という側面を強調した。修験道は、「子どもの病気を治してほしい」「商売繁盛してほしい」など、まさに庶民の現世利益のニーズに応えていく。明治までは仲良しだったお寺と神社、その両方にまたがる域に修験があり、庶民の暮らしにたえず寄り添って、あらゆる悩みや願いに応えていた。しかし明治政府によって修験道は解体され、根絶やしになってしまったため、今、多くの人にとってまるでわからないものになってしまった。実際は、修験道こそ日本人の心に深く刻まれた宗教であり、また、山の宗教、土着の宗教として、まさに「現代の登山ブームや山ガールのルーツは修験道にあり!」であって、日本的自然観や宗教観の根幹を伝えているのだ。
『修験道入門』では、代表的な山修行である「大峯奥駈修行」についても、とうぜん紹介している。ただ、なんといっても五歳で山上ヶ岳に参った経験からいえば、さぞかし山好きと思われるだろうが、私は、この職業でなかったら山登りなどしなかったといい切れるぐらい、本来、まったくのインドア派。ストレートにいえば、山登りは嫌いである。
 最初に奥駈修行に行ったのは、二十四歳のとき。それから三年続け、正直なところ「もう、いいかな」と思っていた。その後、いろいろな事情から三〜四年あけてまた連続して行くようになって五年目ぐらい、最初から数えて八回目ぐらいで、やっと奥駈の魅力・意義を心から実感した。それまでは、毎年、喜々として山に来る常連さんを見て、「おかしいんじゃないか?」とこっそり思っていた。それが、本当に心から、「自分を超えた体験こそが真に心を満たしてくれる、その世界が山修行にある!」と実感できたのだった。
 もとは山嫌いの私が、自らの実感に基づいて説く山修行の意義。そしてオーソライズされた仏教界も知っている目線から紹介する修験道の真髄。自画自賛になるだろうが、それなりに説得力があると思う。それと、大仰にいえば、修験道を理解することで、日本人が明治以降の近代化で失わざるを得なかったものを取り戻すきっかけになればとの思いもある。現代人が抱える豊かさの裏の虚しさは、日本人の暮らしに根ざしていた宗教観や信仰心を失ったことと無関係ではない。それは神や仏への信仰を失ったという意味にとどまらず、猥雑な暮らしの中の宗教性・信仰心、あるいは生きる拠りどころの喪失だともいえる。そういうものを再び獲得する可能性が修験道、とくに山修行による身体の実践にあるのだ。
『修験道入門』で、私は山ブームの延長上にある、一歩踏み込んだ深く心に作用する世界への勧誘を行っている。一歩踏み出すかどうかは、読んだあなた次第である。(談)
構成=川松佳緒里

青春と読書「今月のエッセイ」
2014年「青春と読書」6月号より

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