青春と読書「エッセイ」
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『一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教』内田 樹/中田 考 著
イスラームを学ぶことは、システムの不正に気づく手段 中田 考

『一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教』
内田 樹/中田 考 著

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 大学三年生の時、イスラームに入信した。それから三〇年が経ち、人生の半分以上はムスリムとして暮らしていることになる。
「ムスリムになってよかったことはなんですか」と聞かれることがあるが、これが答えに窮する。見えるものがリアルで、見えないものはリアリティがないと考えるのが近代的な世界観だ。それに対して中世の世界観では、リアルなものはむしろ天上にあり、一瞬前と今で変わっていくような我々の生きている現実は、あくまでも仮象、仮の世界でしかない。そのような中世的世界観に立脚するイスラームでは、重要なのは来世であって、現世利益はあまり求めないからだ。そうやって生きていると、ムスリムになって何がよかった、などということはいちいち考えたりしないのである。

 また、「ムスリムになって困ることは」というのも、よく聞かれる質問であるが、こちらは答えやすい。それは、イスラームはこういうもの、と思われてしまうことである。たとえば比較的知られている知識として「ムスリムはお酒を飲んではいけない」というのがある。それはその通りなのだけれど、それだけを知っていることは、むしろイスラームの理解をさまたげてしまう。というのも、本来のイスラームの教えは、「酒を飲むことはムスリムであることを妨げない。しかし酒を飲む行為は来世での罰に値する」であるからだ。断片的な知識だけをもって理解したように思われることは、誤解される以上に困るのである。

 とはいえ、日本にいながらイスラームを正しく理解するのは簡単なことではない。イスラーム世界で日本のメディアは独自の取材ができず、おもに西洋のメディアが発信した二次情報に基づく報道になることが多い。その西洋は現在、あからさまなイスラームへの敵意(イスラーム・フォビア)が蔓延しているため、正しい情報を届けているとは言いがたい。またイスラーム内から海外に向けて情報を発信することもあるが、その手段は英語であるため、発信者は名前の上ではムスリムであっても欧米の価値観に染まっている場合がほとんどだ。結果、日本で手に入るイスラームに関する情報は、何重にも屈折し、歪んだものになっているのである。

 こうした決して風通しのよくない環境の中で、はたしてイスラームを知る必要はあるのだろうか。短期的、功利的な観点から見れば、イスラームと距離を置いて、アメリカに追従した方が何かと得するに違いない。本当のイスラームを知ることは、世界の真相を知ることであり、真実を知ることは、「苦難の道を選べ」との内なる良心の声をききとることかもしれない。

 それでも私は、あえて「ある」と答えたい。
 現代の仮想敵はシステム、法人概念だと私は思っている。
 法人概念に代表されるシステムとは、目に見えず、実体がないものである。もともとユダヤ教、キリスト教、イスラームのような一神教世界は、実体のない偶像崇拝のシステムと戦ってきた。そして資本主義とは、生身の人間や金から離れ、記号化された金銭と権力を偶像化するもので、一番危険な存在と言える。しかし、キリスト教は本来のメッセージから遠ざかり、長い年月をかけ、プロテスタンティズムを経て逆説的に、アメリカにおいて資本主義を開花させた。そうした状況で、アメリカ的システムを批判できるのはイスラームしかないと私は認識している。イスラームを学ぶことは、今この世界で横行しているシステムの不正に気づく手段なのである。

 一昔前のように、資本家を敵と見なそうにも、今は周囲を見回しても資本家が見つからない。活動家が実際に衝突するのは、警備員であり警官であり、システムの“駒”として働く人ばかりだ。そこで戦いを起こしたところで、問題は一向に解決しない。
 システムに隠れたものを暴き出すためには、知的な訓練を受け、抽象的な思考をする必要がある。それを身につける唯一の方法は、読書なのではないだろうか。この時代、世界は複雑である、ということを学べる本を読む必要がますます高まっているように思う。
 読書だけの、社会的実践を伴わない知識は全く意味がないと思うが、その一方で、知と結びつかない実践というものも役に立たないのである。物質的、現世的な幸せがなくても、学問はそれ自体が楽しいものだ。学ぶ喜び、真理と共にある至福感さえあれば、どんな不幸も感じない、というぐらいの楽しさの感覚を、若い人には身につけてほしいと私は思っている。

 ただし、少し読書したからといって、イスラームをすぐには理解できないかもしれない。しかし、「自分には理解できないとしても理解しなければいけないということを理解すること」が大事なのである。それは対談の相手をつとめていただいた内田樹先生がたびたび主張されていることでもある。本書がそのような役割を担うことができれば、これに勝る喜びはない。

青春と読書「エッセイ」
2014年「青春と読書」3月号より

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