日本における自転車ブームは、ここ数年、目を見張るものがある。
 自転車が流行した時代、時期はこれまでも何度かあった。しかし、今日の自転車利用者の増加には、短期的な「ブーム」ではない、芯の強さを感じる。
 自宅から最寄りの駅まで自転車を利用するサラリーマン、通学で自転車を使う学生、商店街やスーパーマーケットなどへ買い物に出かける主婦や主夫、そして保育園まで子供を送迎する親……といった従来型のユーザーが増えたわけではない。
 鉄道やバスを使って職場へ通っていた人が自転車に乗り換える「ツーキニスト」(自転車通勤者)、ダイエットなど健康維持の目的で川沿いのサイクリングロードを走る中高年、そして休日のドライブデートを自転車に切り替えた若いカップル。これまで自転車に縁のなかった人、もしくは近くのパチンコ店に行くときくらいしか乗らなかったような人が、より高い頻度で、かつ長い距離を自転車で移動するようになったのだ。

ブームの四つの背景
 その原因、理由については、憶測から始まってデータ的な分析まで、各方面で語られている。マスメディアでは「エコ」、すなわち環境保護の視点から自転車に乗り始めたという論調が目立つが、エコそのものがファッション化している現在、個人レベルの二酸化炭素排出量削減というよりも、環境に対する配慮をライフスタイルの中に垣間見させることが格好よく、スマートだという時代の流れが、昨今の自転車ブームを後押ししているものと思われる。
 また、「メタボリック・シンドローム」に代表される肥満、それが引き起こす糖尿病や高血圧症などの生活習慣病対策として、自転車はきわめて有力なツールであると期待されている。年齢を重ねても健康な状態を維持し、また肥満を抑制するには、食生活の改善と日常的な運動が不可欠だ。ところが、特に「会社人間」を貫き通してきた中年以上の男性は、日頃から運動する習慣がない。かといって、自宅やジムで継続的なトレーニングを必要とするものに手を出すのは億劫だし、途中で挫折しがちだ。ところが自転車であれば、目的地まで移動するだけでとりあえず有酸素運動になる。
 駅まで片道一〇分ほどの道のりでは効果はほとんどないから、この際本格的に、と妻には黙って高価なロードバイクを入手してしまうのも中高年男性に多くみられる傾向だ。真新しいヨーロッパ・ブランドの自転車を手に入れた彼らは、東京なら多摩川、荒川沿いのサイクリングロードにまず向かう。頭のヘルメットに始まり、派手な広告がちりばめられたサイクル・ジャージに身を包み、お尻の穴まで透けそうなピチピチの「レーパン」ことレーシング・パンツをはいたサイクリストたちが目尻の釣り上がったサングラスを外すと、そのお顔には意外にも深い年輪が何本も刻まれていたりする。
 さらに、不安定なガソリン価格、長引くデフレで給与は頭打ち、といった厳しい経済環境の影響で、特に若年層にクルマを持たない人が増えている。大学に入ったらまず運転免許(誕生日が早い者は、高校時代に取得していた)、中古でもレンタカーでも親のものでもいいから、無理してもクルマを用意しないと女の子を誘えない。ドライブに誘うことに成功したら、カーステレオでユーミンなどをかけて〝中央フリーウェイ〟を走る、といったお決まりのパターンが私の若かりし頃にはあったが、最近は免許さえ取らない、取る気さえない若者が珍しくない。実際、生徒の減少を理由に閉鎖、倒産した自動車教習所もある。
 そんな彼らが、クルマに代わる移動手段として自転車を選んでいる。もちろん、ドライブのような遠出はできない。だが彼らにとっては、自転車で行ける範囲の公園や街中のカフェなどに乗りつけられればそれで十分なのだ。デートだからといって頑張りすぎない、カジュアルなスタイルで仲よくゆっくり走るカップルを休日に見かけるようになったのもここ数年のことだろう。スカートにスパッツを重ね着するなど、自転車を漕ぐときも楽で、かつ街でも浮かないコーディネートが定着してきたのも、「女子」に自転車が受け入れられていった一因かもしれない。
 こういった時流を一気に加速させたのが、二〇一一年三月一一日の東日本大震災である。東京および関東の大都市では、公共交通機関が軒並みストップ。帰りの足を奪われた「帰宅難民」たちは、駅のコンコースに呆然と座り込んだ。東京都内では道路に大きな影響がなかったため、唯一動いていたバスに人々が集中。が、そのバスも大渋滞に巻き込まれる。自家用車やタクシーで帰宅しようとする人が道路に殺到したためだ。
 バスターミナルの黒山の人だかりに尻込みした人たちは、自宅までの長い道のりを歩き始める。まるで民族大移動のような光景が、都内のおもな幹線道路で展開されていた。その間を通り抜けていったのが自転車だった。自転車で職場へ通っていた人は、当然のことながら、自宅までの道順を周知している。書店では『災害時帰宅マップ』のような地図が震災前から売り上げを伸ばしていたようだが、自転車通勤者は地図なしでも簡単に自宅にたどり着けたはずだ。
 一方、徒歩での帰宅を余儀なくされた人は、途中にある自転車店やホームセンターに殺到し、手当たり次第に自転車を買い漁ったという。ポケットの財布に入っているだけのお金、せいぜい一万円程度でポンと買えてしまうほど自転車が安く売られているのは日本くらいだともいわれているが、あの非常時になんとか自転車を入手して帰宅できた人は、その威力を再認識したに違いない。
 エコロジー、健康、経済のスローダウンによる価値観の変化、そして災害。昨今の自転車ブームは、これらが複合的に作用することで隆盛していると推測される。

 本書では、日本国内の自転車を巡る環境と政策を概観する。そして、イギリスで実践されている具体的な取り組みと比較検討しながら、これから実現すべき自転車社会について考えていきたい。