プロローグ

「世界文学」の扉の向こうには、どんな風景が広がっているのだろう? 世界を言葉で繫ぐのが翻訳だとするなら、境界を越えて、未知の風景に最初の一歩を踏み出すことが、翻訳者の仕事だ。その「最初の一歩」から世界文学の扉が開かれていく。
 世界文学ときけば、ものものしい表紙と金の文字が刻印された「世界文学全集」のイメージが浮かんでくる。古今東西の名作が誇らしげに並んだ書棚は、その定番だ。
 ゲーテは、「世界文学(Weltliteratur)の時代が到来した」という名言を十九世紀に遺している。翻訳を通して外の世界に目を向けることを促したゲーテの名言は、世界文学という輝かしい理想を形成していく契機となった。
 その背後には、ヨーロッパにおけるドイツの言語的文化的統合を目指すいわゆるビルドゥングの過程において、異邦の「他者」との関係性を通して「自国」をより豊かなものとして確立していく時代的意識があった。
 二十一世紀を生きる私たちにとって、「世界文学」とは何だろう。
「ハルキ」や「ばなな」が軽やかに越境してイタリアの街を闊歩しているかと思えば、イギリス国籍の日本人作家カズオ・イシグロが、かの地の精神風土を英語のキャンバスに描き出す。こういった人気作家たちの作品から奏でられる音楽に耳を澄ませていると、少なくとも世界文学全集の重厚で堅牢な旋律とは異質のメロディが聴こえてくる。世界文学の伝統は、いまや世界そのものの多極化を映し出すかのように、従来のニュアンスとは異なる多様な水脈を拓いているような気がする。
 ひょっとしたら、世界を掌握しようとしていた権力構造が帝国主義の凋落とともに崩壊し、それまで抑圧されていた声が語られ始めたことと、どこかで関わっているのかもしれない。たとえば旧植民地から聴こえ始めた周縁の声や、ホロコーストの沈黙から生還者を通して生まれてきた言葉は、世界に新しい音色と色彩を招き入れたといえるだろう。世界文学は、大きなナラティヴではなく、小さき者たちの物語に光を当てるものへと変わっていったのではないだろうか。このような意味で、新たな世界文学の風景が広がってきたといえるだろう。

 その風景に「最初の一歩」を標す翻訳家は、探検家にして新世界の息吹に触れる喜びを知る、実に幸せな人間だと思う。
「本訳者になりたい」と大真面目に記した少女時代の夢を、すっかり忘れ去っていた私は、ひょんなことから「翻訳」に関わるようになって、言葉を通して「世界」の「文学」の森をさまよっている。その道程で、翻訳とは何か、という問題がいまいろいろな場所で議論されていることに気づいた。
「翻訳理論」が批評の領域でも活性化され、実に多角的に翻訳そのものが熱く語られている。たとえば原作と翻訳は決して等価ではありえないという前提から、読みの行為そのものが「再翻訳」の終わりなき反復であるという。また、過去の作品の翻訳は歴史の「再読」であって、そこから言葉の力を通して新たな視座が拓かれるという考え方もある。「翻訳」は、なかなか深い。
 電子辞書やインターネットの自動翻訳で簡単に記号のように変換可能になった翻訳が日常的になっている一方で、翻訳が一つの哲学として注目されていることは、とても興味深い現象だ。
 二〇一〇年春から一年間、イギリスで過ごすことになった私は、翻訳者として一冊のとてつもなく難しい本の翻訳に取り組みつつ、最先端の「翻訳理論」を研究する時間を与えられた。その凝縮された経験のなかから、本書が誕生することになった。
 翻訳とは何なのか、そして新しい世界文学はどこに向かっているのか、いまいちど現代に基軸をおいて考えてみたいという思いから、ここでは五冊の「世界文学」を取り上げてみることにした。
 なぜそれが世界文学なのかは、一つひとつ扉を開けてそこに拡がる風景に思いを馳せて、考えてみて頂きたいと思う。
 一つには、さきほど触れたように、大きなナラティヴであるよりもむしろ小さき者の視点から世界を見据え、越境していく文学であるということがいえるだろう。言葉によって見えてくる世界の拡がりに、あらためて文学の本質が光っている。その本質のなかに、私は人間として生きることにいやおうなく寄り添う悲しみや痛みがあるのだと思う。
 ときにその痛みは歴史がもたらす不条理であることもあるだろう。
 ホロコーストは、まさしくそのような不条理な禍根だ。或いは喪失のいわく言いがたい感情である場合もある。自分にとってとても大切なものが失われたとき、人はその喪失とどう向き合っていけばよいのだろう。文学は、そのような痛みから人間の心を解き放ってゆく力をもっているのだと私は思う。イギリスで過ごした思索の時間のなかで、私はあらためてその力を知ったように思う。
 よもや被災に深い傷を負った日本に戻ることになろうとは予想だにしなかったが、そのようなめぐりあわせを思えばなおのこと、私はここで選んだ五冊の本が、喪失と哀しみ、そして再生や希望のテーマから、多くのものを語っているような気がしてならない。
 言葉が人間の内面から立ち顕れ、意思の力を生んでいくとき、そこに拓かれた新たな空間で、人間は生きる力を取り戻していくのだと思う。そして世界の国境を越えてその言葉を伝えていく運び手が、翻訳者なのだと私は信じている。本書から、文学に関心を寄せる新たな読者が一人でも生まれていってほしい。