はじめに                          赤羽根龍夫

 吉川英治の小説や井上雄彦の劇画、その他多くの映画でおなじみの剣豪宮本武蔵(一五八二―一六四五)。かたや徳川家の御家流として採用された柳生新陰流の代表的な剣客、柳生兵庫助(尾張柳生家初代/利厳/一五七九―一六五〇)。尾張柳生新陰流の伝承によれば江戸時代の初め、武蔵と兵庫助は名古屋の地で出会い、交流があったといわれています。
 この二人の交流の詳細は四百年たった現在ではほとんど知る由もありませんが、その痕跡が名古屋春風館道場に今も伝えられている、と申し上げたら皆さんは驚くでしょうか? 春風館は幕末期、尾張藩最後の兵法指南役にして尾張柳生宗家・柳生厳周(一八四五―一九三二)の高弟・神戸金七(一八九四―一九八〇)を初代館長として、加藤伊三男現館長が名古屋市守山に創設し、一九五九(昭和三十四)年に宗円町に移転し現代に至っています。そしてこの道場には、柳生新陰流をはじめ尾張貫流槍術、新当流長刀、静流自在剣など様々な武術と同時に、なんと壮年期の宮本武蔵の流儀、円明流が江戸時代の遣い方そのまま伝えられているのです(なお、春風館の円明流は尾張柳生に伝えられたものではなく、尾張貫流槍術の伝承の中で伝えられたものです)。
 本書ではこの道場に伝わる柳生新陰流と円明流の技法の比較を試み、柳生と武蔵の違いと共通点を検証しました。すると、研究を通じて見えてきたのは、柳生と、吉岡一門との三度の決闘の直後に創流した若き宮本武蔵の「円明流」との密接な関係でした。柳生と武蔵の関係についてはこれまでも指摘がありましたが、さらに春風館に伝わる尾張柳生中興の祖・長岡房成(桃嶺/一七六四―一八四九)の『刀法録』の解読が進む中でより明確になりました。『刀法録』は柳生新陰流研究者にとっては長らく幻の史料として認知されてきた貴重なものです。戦前、先師・神戸金七は柳生厳周より柳生文書のすべてを書き写すことが許され、『刀法録』をも記録していました。ですがこれまで柳生家がこの史料を公開したことはほとんどなく、また春風館においても神戸が残した膨大な史料の調査が進んでいなかったため、『刀法録』における尾張柳生と武蔵の関係に気がついた人は戦後これまで誰もいなかったのです。

 さて、ここで簡単に私と春風館とのご縁について述べておきましょう。
 私の先祖は江戸の御家人で江戸末期には剣術の師範をしていたそうです。子供の頃から剣術が好きで、高校に入ると剣道部に所属し町の道場にも通いました。最初こそ夢中で稽古しておりましたが、ある時、武蔵の兵法書『五輪書』を読む機会に恵まれました。そしてそこには「足の運び様の事、爪先を少し浮けて踵を強く踏むべし。足づかいは常に歩むがごとし」と書いてあったのです。それは普段稽古している剣道とはかけ離れた教えで大変ショックを覚えました。
「では、今稽古している右足で前へ踏込む現代剣道とは一体なんなのか?」
 この疑問をやり過ごすことが出来なかった私は部を辞めて家にあった刀や槍で一人稽古を続けました。その後、大学に勤めながら大坪指方伝の柳生新陰流などいくつかの流儀を学び、六十歳にして初めて訪問した春風館道場で厳周伝の柳生新陰流に出会ったのです。それは私にとって衝撃的な出会いでした。
 その時、加藤館長が高弟の方を相手にして「一刀両段」や「合打」をはじめ様々な柳生新陰流の型を演武されました。武蔵が言う「踵を踏み続ける」その動きを拝見した時、私が三十年かけて求め続けた本当の江戸時代の武士の剣術が今、眼の前で演じられているという感動がありました。爾来私は共同研究者の赤羽根大介と春風館での稽古を重ね、目録を頂戴し、現在では鎌倉を中心に春風館関東支部として活動をしております。また、技の稽古だけでなく、先述の通り春風館道場に秘蔵されていた神戸が残した史料や古文書の研究を加藤館長から許され、実技とあわせていくつかの研究成果を発表したところ、少なからず反響を呼びました(『柳生新陰流を学ぶ』『武蔵「円明流」を学ぶ』共にスキージャーナル)。本書はこれらの研究と発表の延長線上にあるものです。